9月18日、人権こども塾vol9が開催されました。
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9月2日(土)朝早くから、香川県高松市にあるソレイユという映画館に、仲間内3人で観に行ってきました。その日の1回目上映です。
全国ロードショーの翌日でしたから、どれくらい入っているか、席に座れるか、関係県でもありますから、気になりながら行ってきました。
半時間以上前に着いたのですが、来ていたのはまだ数人で、肩透かしを食らったか、と思ったのもつかの間、続々とお客さんが…。
映画についてですが、まあ何とも言い難い、というのが感想です。
目をそむけたくなりそうな場面もあって。でも、それが事実であったことを思えば、そんなことも言ってられなくて。
どこまでが事実で、どこからが創作なのか分かりませんが、映画という芸術作品であるということを考えると、それもありかな、とか、そうあってほしいと願う気持ちもあったりとか。
ラスト、太鼓の連打音に合わせて登場人物の感情が、心臓の脈を打つように高ぶっていき、そして虐殺の場面に。むごい!の一言に尽きます。特に虐殺の目が幼子に向けられる場面は、目をそむけたくなります。
いざとなれば、私にも同様の感情が湧き起こり、あんな行動ができてしまうのでしょうか。否定はできません。できてしまうのかもしれない、という危険性を常に自分の中に感じ、向き合い続けておくことが、そうならないために必要なことなのかもしれないと思わせられました。
翌日は脚本家 佐伯俊道氏による舞台挨拶が予定されていたため、お客さんはそちらに流れたかもしれません。賛否両論あると思います。でもそれも、観てからです。どうぞ皆さんも、観てください。
8月6日(土)、高知県で開かれた教育研究集会に、森口・吉成で行ってきました。
テーマは「みんなでやろう!いっしょにやろう!ー子どもが輝く学校づくりー」。
第1部は全体会として、「夜間中増設運動全国交流集会IN高知」パネルディスカッションをオンラインで視聴しました。
第2部は分科会で、人権・同和教育・特別支援部会に参加し、「T-over人権こども塾という発想」と題したレポートをしてきました。
私たちに先立ち、高知から「識字学級って何ですか?」というレポートがありましたが、これが凄かった!82歳の学級生、宮田明子さんと、先生の近藤公枝さんのレポートだったのですが、古いイメージのある識字学級。しかしここでは1998年、56歳のときに始めたとのこと。字を書き始めたころの宮田さんの細かい様子がよく伝わってきて、字を学ぶということがどういうことか、聞きごたえがありました。
続いて、私たちからのレポート。人権を語り合う中学生交流集会の歴史や、昨年度の様子、シンジさんの覚悟、これらを受けて取り組まれるようになったこども塾。鳴門市人権地域フォーラムや狭山事件、人形のムラ、在日ヘイトスピーチなど、子どもたちに伝えておきたいこと、大人も子どもも互いにメリットがあること、学校ではできない学びがあることなどについて話しました。
夜は、その日出会った人たちで交流会。世の中にはいろんな人、凄い人がいっぱいいる。そんな人たちと出会い、世界を広げられることって、楽しいなぁと感じた高知の旅でした。
国連NGO横浜国際人権センターでは、毎月「語るかたるトーク」という月刊誌を発刊し、人権啓発を行っています。
月刊誌には、杉藤会長やハンセン病訴訟原告団長の林力氏、また全国各ブランチからの報告や、国連からの情報が掲載されています。
うずしおブランチからも、毎月寄稿を重ね、人権啓発活動に役立ててもらっています。
その寄稿したバックナンバーのすべてをここに記録しました。そして、これからも毎月の最新号をアップしていきます。
どうぞご覧ください。 こちら
定期購読をご希望の方はご連絡ください。
8月20日(日)、香川県の三観地区(三豊市・観音寺市)の中学生を集めての集会「人権について語り合う三観地区中学生交流集会」と、大人を集めての集会「大人の交流集会」が三豊市市民交流センターで開かれ、森口・吉成で行ってきました。
会場に入ってすぐに、ん?と思ったのは、「中学生、増えてない?」でした。訊いてみると、昨年度の倍。30人→65人と、中学生の参加が倍増したと言います。それだけでもすごい!
両市7つの中学校に小豆島の土庄中学校を加えての開会となりました。
「『差別する』ということは?」「多様性を求める難しさ」「部落差別のない明るい社会のために」3本の中学生からの意見発表を受けて、話し合いが進んでいきます。
初めのうちこそ、観念的な話し合いでしたが、時間を追うごとに自分のこと、家族のことなど、具体的な話し合いに変わっていきました。
LGBTQについてどう考え、どうふるまえばいいのか。
見た目やふるまいなどのルッキズムで引き起こされるトラウマ。
部落差別をどうして知ったのか、どうやって知らされていくのか、教えない方がいいのではないか。
ここで、主宰する方にボールが投げられ、応えるという場面もありました。
見て、聞いていて、「このように思ったことが言い合える関係性があることが、そういう場があることが、そういう方向性を持った町であることが大事」だと感じました。つまり、「何事もタブーにしない」ということです。
そういう方向性が町にないと、皆さんどうです?そういう場がないと、皆さんどうです?そういう関係性がないと、どうです?
ここにはそれがある、と見てとれました。こういう町には未来がある。
そんな町が全国に増えていくといいなー、と思わせられた3時間でした。
ぜひ高校生になっても、「この一時」で終わることなく、共に高校を変えていける人材になっていってほしいなと願います。
午後に開かれた大人の交流集会では、2人のパネラーを前にして、約40人くらいの大人が参加しました。
2人それぞれから、LGBTQについて、これまで部落問題などの人権問題にかかわって、思いが語られていきました。
切実だった幼少期や学生時代の場面の一コマ一コマ。また、身の周りに起きてきた差別事象や人権課題。そのどれもに聞きごたえがあり、深く考えさせられる内容でした。
それらについて、またそれぞれの思いについて全体で意見交流が行われていきます。
9月1日に全国ロードショーされる、「福田村事件」についても紹介されました。(徳島では上映予定がありません)
途中、代表の方の、「差別がなくなる日まで続けていきます」を、本当に心強く聞くことができました。
約3時間の交流でしたが、参加していて、こういう「語り合う文化」が、「この町の文化」になっていくといいなと思いました。文化は一朝一夕で作れるものではありません。長い年月をかけて、空気を吸うように培われていくものです。でも、それが「この町の文化」になれば、この町は確実に変わっていくのだと思います。私たちがめざすのは、そういうところかと思います。
これからも一緒に手を携え、それぞれの刺激を共有しながら、文化創造を発信していければと思います。共に、願生りましょう!
以前、香川県の豊島に通っていたとき、紹介を受けた地元の若者がいました。話していくと、「あ、私、その会(中学生集会)に行ったことがあります」。
「えー!!!!!」
ほんっとーにビックリしました。そして、すごく嬉しかったのです。
どこでつながったことが、どこで再会することになるか分かりません。
今回、徳島の「人権を語り合う中学生交流集会+」に参加してくれていた中学生の皆さんが声をかけて来てくれたことも、本当の本当に嬉しかったのです。その一言をつけ加えておきます。みんな!ありがとうね!
そしてまたいつか、どこかで会いましょう。そう願いさえすれば、思いがけず叶うものですから。
8月6日(日)、2023年度の人権を語り合う中学生交流集会+が、鳴門市人権福祉センターで開催されました。
今回は、以前まで行われていた前日県外交流会・夕食会を実施して、過去最大の参加数となりました。
そんな様子は、こちら からご覧になってください。
コロナ禍明け?ということもあってか、この夏は代表二人で、愛媛、滋賀、大分、香川と、いろんなところから声がかかり、語り合う人権学習の意義と大切さについてお話させていただきました。
愛媛では8月1日、「新居浜市人権・同和教育自主研修会」として、新居浜市市民文化センターで、約200人を前に森口から約100分間お話させていただきました。
滋賀では8月2日、「第55回近江八幡市人権教育研究大会」として、桐原小学校桐原っ子ホールで、約100人を前に森口から約90分間お話させていただきました。
大分では8月2日、「大分市人権・同和教育研究会第45回夏期研修会」として、大分市コンパルホールで市内の幼稚園、小中学校、特別支援学校の先生方約400人を前に、吉成から約90分間お話させていただきました。
香川では8月4日、「三豊市人権教育研究協議会講演会」として三豊市市民交流センターで、市内の保育所、幼稚園、小中学校の先生方や保護者の方などを前に約150人に、吉成から80分間お話させていただきました。
新居浜市の皆さま、近江八幡市の皆さま、大分市の皆さま、三豊市の皆さま、素敵な出会いを本当にありがとうございました。
それぞれの地で、これからも共に取り組んでいきましょう。
そして、これからもどうぞよろしくお願いします。_(._.)_ 吉・森
11月5日に、人権こども塾vol12が開催されますが、今年は秋の文化祭を開催します!
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月刊「まなぶ」から原稿依頼のあった冊子が刊行されました。
今回は「新時代 次の一手」と題して、コロナ後の学校における修学旅行実施の状況について書きました。全国の皆さんに読んでいただければと思います。
PDFファイルは こちら から。
独協医科大学准教授で、放射線衛生学が専門の木村真三さん。
今は福島県を中心に、原発による放射線のモニタリング調査などに取り組んでいますが、同時にハンセン病問題にも取り組んでいます。
6月3日、岡山県にあるハンセン病療養所長島愛生園でのシンポジウムに参加していました。
そして4日、夕食をご一緒していたのですが、そこでいろんな企みを二人で…。
またHP上で皆さんにご案内することもあるかもしれませんが、そのときにはよろしくお願いします。
「昨日の自分より今日の自分が好き ~「ひとごと」から「わがこと」へ~」
愛媛県上島町にあるせとうち交流館で、共同代表の森口健司が人権・同和教育講演会を開催しました。
6月3日(土)、快晴の青空、碧い海。
しまなみ海道をドライブし、フェリーを乗り継いで、会場入りしました。
なぜ、板野中学校の全体学習が生まれたのか。
講演は、そのきっかけから始まります。
板野中学校で実践した「生徒が生徒を変える語り合いの人権学習」から、同和問題を取り上げた文部科学省の道徳資料「スダチの苗木」と「峠」を執筆するようになったこと。
また、その資料に込めた思いや願いについてお話しました。
終了後、上島町の小・中学校の先生方が声をかけてくださり、皆さんの人権教育に寄せる思いを聴かせていただくことも。
また、板野中学校での実践記録「峠を越えて」と、派遣社会教育主事時代にまとめた「人権教育美郷からの発信」を抱えて、講演会に参加された先生も。
20年近く前に講演を聴いたときのことや、今も大切に実践記録を読んでいただいていることを話してくれる先生との再会もあり、人権教育のよろこびが広がっていきました。
上島町の皆さま、素敵な出会いを本当にありがとうございました。
それぞれの地で、これからも共に取り組んでいきましょう。
クラス担任だったわけでもない、学校も違う、なのに仲間。
人権を語り合う中学生交流集会で、人権学習で出会ったT-over人権教育研究所・人権こども塾クルーの佐賀みことさん。
昨年度、鳴門市人権地域フォーラムのパネリストを務めてくれた、佐賀みことさんです。
5月30日に6時間だけ徳島に帰省してて、一緒に晩御飯を食べました。
彼女は今春、大学を卒業して、東京にある赤坂ACTシアターの舞台で、「ハリー・ポッターと呪いの子 」の演出助手を務めているそうです。
舞台に出演している向井理さんや藤原竜也さんとも一緒に仕事しているとか。
人権学習を通して「学び続ける」ことの大切さを、中学から高校、大学と追求してたどり着いた先が、ここにあるようです。
人間の持つ可能性って、本当にすごいなぁとつくづく思います。
「ハリー・ポッター」好きの方、「お芝居」好きな方、ぜひ立ち寄ってみてください。
2023年5月28日(日)、愛媛松山市にある四国朝鮮初中級学校の同胞大運動会に行ってきました!
昨年の人権こども塾で在日問題について勉強した際、運動会か交流フェスタに行く?とお誘いを受けたのが、事の始まりでした。
今回は、秋の交流フェスタに向けての事前の打ち合わせにと、4人だけでお邪魔しました。
小高い丘の上に立つ、どこか懐かしい感じの校舎。すぐ前にあるかわいらしいグラウンド。
校舎に並んで立つ木々は、アルプスにあるハイジの家のもみの木のようでした。
朝7時に徳島を出発して、10時に到着。
準備体操、徒競走、くす玉割り、障害物競走、大玉転がし、綱引き、玉入れ競争。
クラス対抗リレー、といっても、日本でいう小中学生にいる子どもたちは、総勢10人。
中学生にあたる子どもたちは4人。
先生も、アボジもオモニも、ハラボジもハルモニも、オッパもオンニもトンセンも、同胞の仲間も加わって、みんなで子どもたちを盛り立てます。
そんな姿にあたたかさを感じます。
あたたかさだけじゃない。
私たちがよく知る運動会の、“勝利至上主義”ではなくて、随所に笑いが散りばめられてて、みんながほのぼのとなれるような競技でした。
私たちも、団体対抗リレーに飛び入り参加させてもらいました!
そして、お昼からはテントの下での大焼肉会!
とにかく賑やか!
ご飯やキムチやチヂム、飲み物も販売され、たくさんたくさんいただきました。
食事の合間には、グラウンドでサッカーPK大会や朝鮮舞踊も披露され、観覧の皆さんから拍手喝采。
そして、「アリラン」の合唱。日本でいう、「ふるさと」のような唄。
この場では、発せられるほぼすべてがハングル語。唄の歌詞も、内容も、分かりません。それでも、なんとなく言ってることは伝わってくる不思議。
それにしても、この10人の子どもたち、ずっとずっと出ずっぱりです。
本当に大変。
でも、すべて全力。そして、笑顔。それに、楽しそう。
上級のお姉さん、お兄さんが、小さい子たちの面倒を見て。
高校生の先輩たちが、そのお姉さんやお兄さんを支えて。
みんなが一つの家族のようでした。
昨日の中学生集会実行委員会で話し合われた、「家族についての語り合い」を思い起こさせてくれました。
おまけに、お土産までいただいて。。。
片づけまで、みんなで一緒に手伝わせてもらって、すごくすごく貴重な経験となりました。
一つの大家族のような、小中学生10人。
私たちもその姿から、学ぶことがたくさんありそうに思えます。
秋の交流フェスタに向けて、またこれからの継続的な交流に向けて、何ができるのか、何をすればいいのか、私たちは何をしたいのか。。。
これから人権こども塾のメンバーと考えていきたいと思います。
これは、私たちが、私たち自身を見つめなおす機会になるのかもしれません。
このみんなの笑顔とまた会える日が、今から楽しみです。
人権こども塾2期がスタートした日の夜、人権こども塾「おとなのための飲み会」を開催しました。
きっかけは些細なところではありますが、参加したメンバーみんなが、それなりにこの日を待ち望んでいたことを知っていた私は、「今ならできる! 今出会ってほしい!」と企画しました。
総勢14名。
教員もいますが、それだけではありません。
介護士、看護師、消防隊、鳴門金時農家、美容師など、実に多彩なメンバーで飲むことができました。
年齢層も、20代から60代まで。
共通して言えることは、部落問題を、人権を、本気で語り合ってきた仲間だということです。
それが、出身も、場所も、世代も超えて、つながりあえる場となりました。
なかには、今まさに、我が子に部落をどう伝えるか、で悩んでいる仲間がいます。
それを20代の若者はどう聞いたか、人権学習に携わる教員はどう聞いたか。
今、そういう場が本当になくなっています。
だから、自分一人で抱え込むしかない。
でも、私たちは知っています。つながりあうことの大切さを。
それを今、あらためて、ここから始められればと思います。
同時にこのメンバーは、人権こども塾に絡んできてくれる立場にあります。
つまりこのメンバーは、人権こども塾の影なるサポーターでもあるということです。
10年後、20年後、この場にこのメンバーと、今のこども塾のメンバーがいて、世代を超えて人権文化がつながり、拡がっていく日を夢見て。。。
こんな素敵な、なんでも話しできるコミュニティを、これから私たちはつくっていきます。
今回の学習でご協力いただいた「保護者への聞き取り」内容や私見について記録にしてみました。
中学生の保護者が学生時代に受けた「同和教育・同和問題学習」の印象が、今どのように残っているのか。何かの参考になればと思います。
2023年2月14日(火)、八万中学校1年生第4回学年全体人権学習を行いました。
今回は「日本の人権獲得の歴史中世」に焦点を当てて、各クラスで取り組んだまとめの時間となりました。
今回も前回同様、6クラスから1人ずつの小グループを作っての横割り学習として、学年のつながりを深める試みをしました。
これまで行った3回のふりかえりをしたあと、それぞれのクラスで取り組んできた学習について報告することから始まりました。
発問1.それぞれのクラスでしてきた学習について思ったこと,気づいたこと,考えたことについて語り合いましょう。(発言一部抜粋)
各班の共有
①「学習してきて思ったこと、気づいたこと、考えたことは、部落の人々は悪いことをしていないのに、罪人のような扱いをされて、ケガレやエタなどのように言われて、とてもかわいそうで、どうにかできなかったんだろうかと思いました。また結婚することも、部落の人だと言ったら、すごく反対されたり、緑の血の子はほしくないなどと言われるなど、なぜそんなことを言われなければいけないのか分からないと思いました。」
②「この間、吉成先生が話していただいたように、日本文化は差別された人々によって構成されたものです。でも彼らにもそういものがあって、ちょっと違うかもしれませんけど、みなさんは錬金術師と言えばアニメをイメージするでしょうが、実際にあったものです。とある王様が、例えば違う物と違う物を組み合わせて、物を作れるということを利用して、金属を作れないかということを考えつきました。そこで錬金術師という職業をつくり、金を作らせようと努力させました。その過程で水酸化ナトリウムや塩酸などの素晴らしい物が出てきましたけど、しかし、金属を作るのに失敗した者は処刑されて死んでしまいました。僕たちの身の周りにもそういった暗い一面をもった文化があるのかもしれません。」
③「この勉強をして、ケガレという言葉が、僕はキーワードだと思いました。ケガレは、病気や感染が起こったとき、ケガレと言って不安を押しつけたのだと知りました。今過ごしているなかでも、ケガレみたいなものはあると思います。いじめは自分以下を求めたりするので、求めていないと不安な気持ちを押し当てている。これも、ケガレなどと似ているのではないかと思いました。だからこの生活で、不安というケガレをなくしていくためにも、まず原因を正しく知って、その原因から正しい行動をしていきたいと思いました。そのときに、噂や、何々らしいという言葉を信用しないということも大事なことだと思いました。以上です。」
④「部落差別に関する動画を見たときに、私は何も知らなかったんだなと思いました。動画の中で世間の人たちが言っていた言葉で、過去のことだと思っていたというのがありました。私も学ぶ前はそう思っていました。でも実際は現在も差別は続いていて、今も苦しい思いをしている人がいます。部落出身というだけで結婚を拒否されたり、デマの情報を流されたり、穢れていると言われたりして、本来得られていたはずの幸せが奪われてしまうのはとても残酷なことです。動画では、教育の場でも部落のことについてあまりふれてくれない、取りあげてくれないという声がありました。だから正しい情報を知るために、きちんと学ばなければいけないなと思いました。」
⑤「昔の人々のケガレという考え方は、すごくおかしいと思ったし、病気や災害が起きてすごく不安だったとしても、ケガレという考え方のもとで亡くなりかけている人を捨てたり、人を差別したりするのは絶対にいけないなと思いました。今も昔も④さんが言ったみたいに、いじめやケガレで犠牲になっているというか、悲しい思いをしてる人がいるのは何も変わってないと思いました。」
⑥「差別に関する動画を見て、革の加工をするやつがあったんですよね。それで差別というか、やりたくないことをやらせておいて差別されるのはどうかと思いました。一面だけを見てどうこう言うのはおかしいのかなと思いました。以上です。」
⑦「今と昔ではケガレという言葉の意味自体が全然違ったし、そのケガレによる差別や、それの罰で追放だったりケガレに値することをしてしまった場合、周りからの見方が変わるのが嫌だなと思いました。いつの時代になっても差別はなくならないし、考え方が違うだけで人間がしている差別の考え方は変わらないんだなと思いました。」
中世の差別についての学習をしてきたのですが、子どもたちからは早くも、「今もある部落差別」の話が出てきました。
「鹿苑日録」に書かれている、相国寺僧侶周麟の言葉を引用し、当時のことについて解説をしました。
「某、一心に屠家に生まれしを悲しむ」(又四郎)… 私は心から差別される家柄に生まれたことを悲しく思う。
「故に物の命は誓うてこれを断たず、又財宝は心してこれを貪らず」(又四郎)…だから、殺生はしないように、物欲はもたないようにしている。
そんな又四郎について周麟は思い、書き記します。
「私が思うに、又四郎こそ人である。今時の僧侶たちの行動は、彼に及ばない。慙愧慙愧(残念で恥ずかしい)」
また、龍安寺の石庭や、つくばいに記された「吾唯足知」についてふれながら、当時の山水河原者と言われた人たちの思想や生き方についてもふりかえりました。
そのうえで、次の発問です。
発問2.あなたが今,欲しいものは何ですか? あなたにとって大切なものとは何ですか? 龍安寺の石庭や「吾唯足知」,又四郎の生き様,考え方について,あなたはどう思いますか。(発言一部抜粋)
各班の共有
②「私が今欲しいものは、差別されていたり、過去に差別されていた人たちの気持ちを理解してあげられる心が欲しいです。私にとって今大切なものは、家族や友人などたくさんあるので、自分なりにその人たちの存在を大事にしながら、違う方にも目を向けて、差別されていたりいじめられている人たちの心に寄り添ってあげられるような人になりたいと思いました。」
③「私は今欲しいものがたくさんあります。でもそのほとんどが、お金がなかったら手に入れられないものだと思います。以前吉成先生に教室で、現代のみんなはお金に執着しすぎているという話をしてもらいました。いい高校に入って、そのままいい就職に就くのはどうして?と聞くと、ほとんどの人がお金を稼ぐためということ、最終的にお金のためにという考え方に行くという考え方は違うということについて語ってもらいました。このことについて私は、昔の人は労働、課せられた仕事の中で、技術とかを磨いて楽しみを見つけ出していたけれど、現代の人はお金のためにっていう、お金のために働くとかいう考え方になってきていて、昔とちょっと考え方が違ってきてるんじゃないかなと思いました。」
④「僕は今は時間が欲しいと思います。時間はお金のように買えなくて、自分で得られるものじゃないけど、唯一みんなに平等に与えられているものだと思います。又四郎にも平等に与えられていて、又四郎はその与えられた時間の中で、頑張って努力して庭師の技術を身につけたと知りました。又四郎のように限られた時間の中で頑張っているのだと分かると、今の自分も欲しいものばかりを求めるのじゃなくて、今の自分に何ができるのかというのを考えて努力するのが、欲しいものを得るのに一番近い方法じゃないかとも思いました。何でも限られた中で頑張るのが大切だと、さっきの発表でも今考えました。」
⑤「私が今欲しいものと聞かれて、特にパッと思い浮かぶのはありませんでした。これから生活していく中で、あぁこれが欲しいなとか、こういうものをもらったら嬉しいなと思うことはあると思うけど、そこまで思いつくものはなかったです。大切なものは家族や友人で、その人たちが傷ついたら、自分も傷つくし、悲しいなと思います。「吾唯足るを知る」というこの考えを、私も含めみんなもできたら、みんな幸せになると思います。でもこの考えを悪い方向から見たら、もうこれでいいやっていう、満足してしまって、そこで止まってしまうみたいな感じにもとれるので、もっといい方向にっていう向上心もなくなってしまうような気もします。又四郎の生き方は見習いたいです。なぜなら、自分がいじめられてもやり返さないし、殺生もせず物欲も持たないようにしていて、それができたらいじめは少なくなったり、みんな自分の状態に満足して他人と比べることもなくなるのかなと思いました。」
⑦「自分が欲しいものは、訴えられる勇気が欲しいなと思いました。又四郎たちのような部落の人たちのためにも、全世界に訴えられるような勇気が欲しいと思いました。また、又四郎はすごいと思いました。動物にも優しくしていて、これだけ悲しい思いをしているのに、物欲を持たないようにするなんて、僕はできないと思いました。」
⑨「さっき吉成先生が、差別とは命、物、お金を粗末に扱うことだと思うと言ってたんですけど、私は欲しいものがあったら、お金をすぐに使っちゃうし、物もあんまり大事に使えてないしで、大切に扱えてないので、そしたら私も差別に値してしまうのかなって思って、ちょっと深く考えることができて、これからの生活を見直すので、そういう話を聞けて良かったなと思いました。それで又四郎さんは殺生しないために、物欲は持たないようにしていると言っていました。差別される家柄に生まれて、思うように生活できず、いろいろなことがあったと思うのに、そういうようにしているのは本当にすごいことだなと思いました。私はこのようなことはできないと思います。又四郎さんの言葉を聞いた周麟さんが書いたように、又四郎さんこそ人であり、彼に及ぶことはできないなと思いました。」
⑩「たぶん欲しいところにお金って書いとる人が結構多いと思うんですけど、お金だけだったら何にもならなくて、お金と何かを交換するからお金が成り立つんであって、言えばお金ってただの銅とか、ただの紙じゃないですか。それを私たちが、これと交換する価値があるって思うことで、そのお金が成り立っとるけん、この世の中にお金が絶対に必要なんですよ。昔みたいに物々交換しよったらややこしいじゃないですか。これとこれはホンマに同じ価値なんかとか、いろいろあると思うので、それこそ今は電子マネーとかになっとるけど、やっぱりお金が欲しいっていうんじゃなくて、何かを得るためにお金が欲しいっていうんだったら、まだ分かるなって思います。だから、お金が欲しいっていう人が悪いわけじゃないけど、もうちょっと自分の欲しいものとかを明確にしてやった方がいいかなと思います。」
世の中は、物欲金欲、私利私欲にまみれています。私たち自身が、それに煽られているという自覚を持っていないと、安易に流されてしまうように感じます。
物欲金欲ではない、別な価値観にスポットを当てていた善阿弥や又四郎の生き方・考え方から、現代を生きる私たちも学ぶことはあるのではないでしょうか。
前週に行った合唱発表会を例に出して、人間関係の良いところに、素晴らしい歌声は生まれるというお話もさせてもらいました。翌月の今日は、3年生は卒業していない。翌々月の今日は、2年生として新入生を迎えている。だからそんな関係性を、残りわずかな日々の中でつくりあげていこう、と話しました。
発問3.中世の差別は,今どうなっているでしょうか。それぞれのお家で聞き取った内容について発表しましょう。またそのことを通して,「残りわずかとなった今のクラス」「これからの私たち」について語り合いましょう。(発言一部抜粋)
各班の共有
②「家の人から話を聞いたら、学生の頃に部落の話で、ケガレやエタなどの単語が出てきたと言っていました。また部落の話が多くてビックリしました。残り少ないこのクラスで喧嘩せずに、いじめはせずによく遊び、笑顔で終われるようにしたいと思いました。これからの私たちは、部落の出身など関係なくふれあい、助け合いながら生活していきたいと思いました。」
③「自分の家の人にも話を聞いたんですけど、その頃も人権の学習をしたらしいんですけど、そのときに、どこか他人事のように感じてしまっていたと思いますと言ってたので、差別とかをなくしていくには他人事と考えずに、一人ひとりが正しく理解することが大切だと思います。」
④「私のお母さんが大阪に住んでいたとき、差別や在日韓国人差別の問題が、まだ色濃く残っていた時代だったそうです。私のお母さんの親や学校の先生方たちにとってはもっとリアルタイムの問題だったと思っていて、指導も熱量も高く、内容も今より重いことが多かったかもしれませんと思っています。部落の人たちがなぜ差別を受けたのか、その生活や仕事の話を聞いたり、在日韓国人の文化や日本に来ることになった背景などを、一時教わったということです。まとめると、差別の根源は異質な文化や無知に対する、生き物・動物としての、いたって普通な拒絶反応であり、差別はダメだからダメではなく、知識を得ることによって自然と軽減できるものだということを知りました、とのことです。なので私も、差別はアカンけん、それはアカンよって言うんじゃなくて、これこれこういうことがあって、それはこういうことやけんアカンよって、ちゃんと知識をもって、ちゃんと理屈をもっていけたらなって、差別はダメだよって言っていけたらなって思います。」
⑦「中世の頃の差別はケガレていると言ってのけ者にしていたけど、それはまだ今も残っていると思います。動画で、部落出身というだけで結婚を認めてくれなかったと言っていました。家の人も部落差別のことについて学んだとき、結婚反対をはじめとした不当な扱いを受けていることを知ったそうです。またこのことを通して、残りわずかとなった今のクラスで、楽しんで暮らせるようにしたいです。互いの個性を知り合い認め合うことで、さらに仲が深まって、これからの生活を楽しめると思います。」
⑨「私は最近、親とこういう話をする時間がとれなかったので、昔親と話したことの意見とたぶん同じになるんですが。小学校の時に私のことを、偽善者面してうっといんじゃ死ねって言ってくる人がおったんですよ。たぶん1回しか言われたことないんですけど。そのことをお母さんに話したら、学校に言うとまではいかないけど、ちゃんとお母さんとか、その子と話し合って、問題が解決できた後に、お父さんとお母さんが言っていたことが、あなたのことを傷つけた人もおると思うけど、けど、そういう理由だけであんたがその子や人を傷つける理由にはならんけんなって言われて。自分はそれに言い返さんかったんですけど、言われたときに、あー確かにそうやなってなって。それで自分なりに出した結論が、別にうちのこと嫌いなんだったら嫌っとってくれてもいいけど、人に迷惑をかけるような暴言とかはあんまり吐かんとってくれたら嬉しいし、別に私もその人とはもう仲良くせんし。けど、その人が困っとったら助けたいなと思いました。」
⑩「親は部落差別とか、そういう人権の学習はあまりしなかったと言ってました。それで私が考えたのは、まだ今みたいに差別が完全に否定されてるわけではなくて、まだ昔だから残っていたので、あまり学習をしていなかったのかなと思いました。今のクラスは、差別とか嫌な目で見る人は周りにいないので、このままその状態が続くように、みんなで協力して残りの時間を過ごしていきたいと思いました。2年生になって違うクラスになったら、自分たちは差別的な目で見たり、人を勝手に偏見で決めつけたりしないように、そのなかでそういう雰囲気をつくっていけたらなと思いました。」
⑭「母から聞いた話です。母は同和教育の絶対の部分、絶対差別をなくさなければいけないという絶対が苦手だったと聞きました。差別の絶対が許されないなら、一瞬でも差別をする自分を否定することになってしまって、それが苦しくて恥ずかしいため、差別心を隠すようになるからというのが理由です。次も聞いた話で、その頃教わったことは正しいことだと思うけど、世の中には正しい答えがないことがたくさん存在する。そのことを大人になるにつれて学んだそうです。そこから考えたのは、答えのない差別を減らすのは難しいと思う。だけど答えが一つじゃない限り、方法もたくさんあると思います。その一つの方法として、まずすぐできる方法を考えると、自分の差別心に気づいて変えることが一番の近道じゃないかと、僕の中では思います。今吉成先生から学んだ、学びを続けるという言葉を聞く前までは、差別心をなくすために、1回考えを変えればいいと思ってたけど、学び続けるという言葉を聞いて、この多様な考えを、1個だけじゃなくていっぱい取り入れる。それをどんどん大人になっても続けることで、もっといい自分を築いていきたいと思いました。」
実に多くの、多様な保護者からの聞き取りがありました。おおむね、受けてきた学習は好意的に受けとめられていました。同和教育は伊達ではなかったということです。
その一方で、「まったく受けた記憶がない」といった回答が割とあったことも事実です。
「無知は差別を生む」
このことを考えると、大きなマイナスをゼロに近づけた今、私たちに問われていることは、ゼロにし、プラスに変えることができるか、ということではないでしょうか。これまで先人がしてきてくれた努力にあぐらをかくのではなく、次のステージにさらにステップアップできるかどうかが、現代に生きる私たちに問われているということです。
最後に、人権学習の神髄とは、「学び続けることを学ぶこと」と話をさせてもらいました。
立ち止まればそこで終わりです。人権学習は生徒のうちはあっても、生徒でなくなればなくなります。あとは、自ら学ぶという姿勢がなければ、アップデートはできていきません。しかし、時代は刻々と変化していきます。ということは、「学び続ける」ことを学んでおくことが必要だということです。
その学びをしていれば、日常「ケ」も、非日常「ケガレ」も、ハレの時も、生きてきます。そんな学びに変えていきましょう。そのことを自らに問い続けていくためにも、「自問自答」できる自分でありましょう、と話をして、この1年生の学年全体人権学習を終えました。
できることなら、2年生、3年生と続けていった結果、どんな中学生として成長できるのか、見てみたいものですが、そればかりは分かりません。
熱は冷めます。でも、冷めない熱を持った子どもたちがいることを、どこかで信じたいと思います。
新年明けましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いします。
昨年は何と言っても、「人権こども塾」を立ちあげたことが一番のトピックスでしょうか。
学校現場で思うような人権学習ができない、今(吉成個人)。現状を打開する策として、こどもたちを身近に感じながら、人権を軸とした学習活動ができるようになったことは、このうえない救いであり、喜びとなりました。
人権を基軸とした人材育成をすることは、これからの学校や社会、この国や世界の有り様を変革していくことにつながると信じます。
現実は、「人権は大切だと思うけど…」といった「ひと任せ主義」が大勢かもしれません。それを、「やってて楽しい!」といったワクワクするような、能動的な「一人称主義」に変えていければと思います。
そのためにも、これからもつながりと拡がりを大切に、継続していければと思っています。今年も、そんな中高生と年間を通じて学び合えることを願っています。また、私たちにつながりのある若者や大人がかかわってくれることを切に願っています。
今年のT-over人権教育研究所・人権こども塾の活動計画です。
先行募集は始まっています。2月からは一般募集をHP上で始めます。1期生の期間も残り3ヶ月となりました。
今年は県外中学生との交流を拡げていきたいですね。また、人権こども塾生がどんな活躍をするかも楽しみです。
様々な立場の大人同士が、大人とこどもが共に学び合うという貴重な場が、コロナ禍を経て拡がりをみせることを願っています。
4.国連NGO横浜国際人権センター月刊誌「語るかたるトーク」への寄稿
実は連載を始めて、今年で100回を迎えます。思い出の出来事や、その時々に感じたことを、割と結構真剣に書いています(笑)。どうぞ読んでください。
私たちの基本理念です。様々な人権課題について「自分を語る」ことに、どれだけの可能性が秘められているか。悩みましたが、今居るところで、その挑戦を積み重ねていくことを覚悟しました。
瀬戸内を中心とした、人権にまつわる各所を巡る旅のネットワークを拡げていきたいと思っています。みなさんも一緒に行きませんか?
人権をベースにつながった多くの仲間と、おもしろいこと、楽しいことを共に分かち合える一年にできればと思っています。立場を越えていつまでもね!
リーダーとして、またフォロワーとして、どうぞつながり続けてください。絡んできてください(笑)。
本年も、どうぞよろしくお願いします。m(_ _)m
12月6日、八万中学校1年生第3回の学年全体人権学習を行いました。
今回のテーマは、それまで取り組んできた防災学習の流れのまま、お家の人への被災ボランティアや被災の聞き取り、それに「二つのふるさと」という資料を通しての学年全体人権学習でした。
今回は特に、担任の先生からの提案もあり、クラスごとに整列して並ぶ、という形態から、クラスを解体して各クラスから1人ずつで6人の班をつくり活動をするという、班活動の時間をとるようにしました。
これが思いの外はまり、良かったのです。
学年全体のつながりを持つ意味では、意義ある取り組みのように思われます。
さて、どんな授業になったのか、どうぞご覧ください。
発問1.それぞれのクラスでしてきた学習について思ったこと,気づいたこと,考えたことについて語り合いましょう。また,お家の人から聞き取った災害や被災支援の経験などについて発表してください。(発言一部抜粋)
各班の共有
①「東日本大震災の映像を観て、徳島にもこの地震が来て、こんなことになるんだなと思ってゾッとしました。家の人に聞いた話なんですけど、オレの父さんはガス会社なんですけど、ガス会社で東日本大震災が起こってしばらくして波が引いたときに、ガスを復旧させなアカンじゃないですか。そのときにガス会社の選ばれた人が応援隊ってヤツでいかなアカンのですよ。そんなんがあるっていうのを親から聞いて知りました。」
②「東日本大震災では、震度7やマグニチュード9などの地震が起きて、東北の人たちも苦しい思いをしてきたと思うんですけど、自分たちはどんな思いをしてきたのか分からないので、こういう学習で学んで、今後の災害とかに備えていけたらいいと思いました。」
④「東日本大震災の津波が押し寄せている映像を観たときに、私はすごく怖いなと思いました。でも東北の人たちの方がもっと怖いと思うし、私はその体験をしたことがないので、そういう学習とかを学べて良かったと思いました。それで母から聴いた話なんですけど、私は東日本大震災の時に、当時は関西の滋賀県に住んでいたんですけど、震源地からだいぶ離れていたのに、結構揺れたと言っていました。ニュースで津波が押し寄せているところを見て、日本じゃないみたいだったと言っていたので、私もその母の話を聞いてさらに怖いなと思ったし、これからいつ地震とかの災害が起こるかも分からないので、しっかりと防災の対策とかをしていかないといけないと思いました。」
⑤「おばあちゃんから聞いた話なんですけど、東日本大震災の時に、緊急地震速報がテレビ見てたら流れてきて、津波とかの映像も映し出されるんですけど、さっき河野さんが言ってたようにおばあちゃんもすごい怖かったし、徳島やから離れとるけど、それでも映像とか見たら、もしかしたら、可能性はあんまりないけど徳島にもそういう津波が来てしまうんじゃないかと思って、めっちゃ怖かったと言っていました。」
⑥「私はお父さんから、東日本大震災のニュースを見た経験を聞いて、夕方のニュースをつけたら空港に津波が押し寄せてきている映像を見て、衝撃を受けて遠くの街のことやけど、恐怖を感じたって言ってました。私は災害を経験したことがないけど、自分がいつ同じ状況になってもおかしくはないと思いました。」
誰かの発表を引き継いで、発表をする。つながることの大切さを伝えました。
阪神淡路大震災、東日本大震災、釜石の奇跡、大川小学校の悲劇、フクシマ差別、熊本地震、異常気象が原因で起こっている災害について確認したうえで、人間が関わっている異常気象については、SDGsにつながるというお話をしました。
発問2.「二つのふるさと」の恵子は,結局どうしたと思いますか。あなたならどうしますか。(発言一部抜粋)
各班で共有
①「恵子さんは郡山の学校に進学したと思います。でもそれは、どっちが故郷とか決めたんじゃなくて、今いる友達との関係や、生活を続けることを決めたのだと思いました。私だったら双葉郡の子どもを受け入れる学校に行くかもしれないと思いました。理由は元々の生活を取り戻したいって思うかなと感じたからです。」
②「私は恵子さんは郡山市内の学校に通ったと思います。なぜならお母さんが最後に言っていた、どっちも大事な故郷だよっていう言葉が心に響いて浪江町の方の学校に行ったら、お母さん大変になるし、郡山市におったらお母さんもそんなに大変じゃないと思うし、どっちも大事な故郷やから、お母さんのためを思って郡山市内の学校に通ったと思います。」
③「恵子さんやったら、私の中では、恵子さんの姉と同じように父や母の反対を押し切って、故郷に近い場所に住むと思います。私やったら、なるべく初めの故郷に近いところと、2番目の故郷にも近いところにたぶん住むと思います。理由は自分のお父さんやお母さんとか身内の人はメチャ心配すると思うけど、どっちの故郷もたぶん私は好きやと思うし、遠いところにあんまり離れたくないからです。」
④「自分だったら南相馬市の出身地の近くに住みます。理由は被災地の近くに行くと自分の思いを忘れないようにできて、それで逃げないようにもできて、その迷った経験を発信していけると思ったからです。お母さんの言っていたことも、郡山に残る理由にもなるけど、南相馬市の出身地の近くに行くことで、郡山と南相馬市の二つの故郷と両立できるようにしていきたいと思うからです。」
⑤「恵子さんは郡山の高校に入学したと思います。だけど故郷についての悩みはうすれていたと思います。それはお母さんが生まれた場所や育った場所、今住んでいる場所のすべてが大事な故郷と言っていたからです。私も郡山の高校に入学すると思います。母の思いを尊重したいからです。やっぱり家族と離れるのは寂しいし悲しいからです。それに故郷だからという理由で無理に高校を選ばなくてもいいと私は思いました。」
我が事で捉えると、揺れて決められない。そんな思いが伝わってきました。
決めようにも決められない、身が引き裂かれるような思いで決断しなければならないという、悩ましい苦しい思いが伝わってきました。
差別やいじめは、非日常に起こる。そんな現実を考えると、日ごろから人権について考えないといけない。防災学習も人権学習だということを確認し、次の発問に。
発問3.自分にとって大切な人や場所と離れる,別れるとはどういうことだと思いますか。(発言一部抜粋)
班で共有
④「僕は大切な人や場所と別れることは、今までの自分から生まれ変わることだと思います。気持ちが生まれ変わっても、昔のことを考えると悲しい思いをする人がいるかもしれません。それほど新しい自分になるのは難しいし、中途半端になるかもしれないと思うし、心がくじけそうになるかもしれません。でもどこかで諦められるところが出てくるかもしれないので、そういうことはあまり無理をしない方がいいと思います。」
⑥「慣れてるところだからこそ、突然離れたらつらい気持ちにもなると思うけど、そこから近くにいなくなるだけで、必ず会える日はあるので、その日のために楽しい気持ちとかをたくさん持つっていうのが私はいいなと思いました。」
⑦「とても勇気のいることだと思います。大切な人や仲いい人がいるところっていうのは、コタツみたいに暖かくて抜け出しにくいところだと思うからです。でもそこを出ることで、新しい場所に行って得られるものもあると思うし、成長にもつながると思います。自分からそこから出て行った時は、自分で行っきょるけんそこまでつらいものではないと思うけど、恵子さんのように突然離れてしまったらとてもショックだし、とても悲しくて、つらいものだと思うので、それはあまり体験したことがないので分からないけど、そういうことがあったとしたら、他の楽しいこととかやりがいのあることを見つけて頑張っていけたらなと思います。」
⑩「私は大切なものと別れたり離れたりするときは、自分の中の一部もなくなった感じがして嫌だなと思いました。私は友達が転校したりひいおじいちゃんが亡くなったりして、大切な人と別れたりしたことはあるけど、そのときは自分の中の大切なことも失った感じがして、凄く悲しかったのを覚えています。」
⑪「自分にとって別れるということは、凄く悲しいことだと思います。今まで話していたり遊んでいた友達と急な事情で違うところに引っ越すとなったら、その友達とは別れることになるから、言葉に出来ないくらいつらいと思います。」
それぞれが感じる「別れ」。
この機会にと思い、拉致問題について紹介しました。横田めぐみさんのお父さん、滋さんは、地元八万小学校の出身です。11月15日に拉致されためぐみさんは、当時13歳だったそうです。いつか会える「別れ」ではありませんでした。
恵子さんも突然引き剥がされました。
ハンセン病元患者も同じです。映画「あん」のラストに、元患者の徳江さんが、「私たちは、私たちには、生きる意味があるのよ」と遺言を述べます。思うような人生が歩めなかった徳江さんにとって生きる意味はあったのでしょうか。
発問4.「生きる」とはどういうことだと思いますか。みなさんの周りの人はどんなふうに生きていますか。あなたはどう生きていますか。(発言一部抜粋)
班で共有
②「生きるということは、人によって価値観はまったく違うと思う。例えば生きるのが楽しいと思う人や、生きるのが嫌だと思ってる人がいると思う。世界には生きたくても生きられない人がいる。だから自分は、このもらった命を大切にしていきたいと思った。」
③「僕は生きるっていうことは、心を持つことだと思ってます。心を持ってない人は、ほとんどの人は心を持ってるんですけど、心を持ってない人はいないと思いますが、何か悪いことをしたりとか、何か犯罪を犯したり、何かいろいろ悪いことをしたりする人は心が生きてないと思います。だからこそ、心を生かして、心を死なせないように真剣に目を向けてしっかり考えていったらいいと思います。」
⑥「大木さんと一緒で私は生きるということは誰かの支えになることだと思います。理由は、私たちは母や父に支えられて生きているからです。また誰かの支えになれるように生きていこうと思いました。」
⑧「よく、自分の命は誰のものなのかっていうのがあるじゃないですか。自分の命は自分だけのもの側の意見にも、自分の命は他の人にとっても大切なもの側の意見にも私は共感できます。だから生きることも、人それぞれ考え方が分かれるものなのかなと思いました。自分は何のために生きているのか、どうやって自分の命があるのかと考えると、必ず同じ答えが出るとは限らないと思います。私は人の分だけ考えがあると思っています。だから私は自分の意見をはっきりと伝えて、他の人の意見に耳を傾ける。そして、満足できる生き方をしたいです。」
⑨「僕は生きるということは、どんな感情、楽しいや、悔しいから努力するって行動していくことだと思います。杉本さんの言っていた、犯罪をするのは心が悪いと言っていたけど、それも、悪いことをするのも生きている証拠だと思います。来代さんが言っていた、生きる選択をするっていう、その選択が間違っているだけだと思いました。」
⑫「私は命と向き合うことだと思います。私の周りの人は命を守るために生活しています。避難訓練だって同じで、それと同時に命の大事さを学んでいます。例えばすっごくつらいことがあって自殺しようかなと思ったとします。そのときって、生と死の狭間にいるわけですよね。そのときって、嫌でも命と向き合うと思うんですよ。だって、これが決まれば自分は生か死のどちらかなんだから。その向き合いで、例え最悪の結果になっても、その人が命と向き合った証だから、よく頑張ったなでいいと思います。それをふまえて私は、命と向き合うその瞬間まで、精一杯命を守っていきたいと思いました。
よく防災学習で、「自分の身は自分で守る」と言いますが、障がい者、高齢者、子ども、特別な支援が必要な人、は自分で自分の身を守れるでしょうか。
SDGsの学習をしたとき、「誰一人取り残さない」という理念について学習しました。この矛盾をどう解釈すればいいのか。
「命を見つめる」と言ってくれました。
今のクラス、どうでしょうか。ちゃんと命と向き合えてるでしょうか。誰一人取り残してませんか。つらい思いしている人はいませんか。悲しい思いさせてることはありませんか。
12月8日は太平洋戦争を始めた日。した側が忘れてはいけません。
年末年明け、再度ふり返って、いいクラスづくりにしていきましょう。残りわずかな時間を大切に過ごしていきましょう。
最後にこんな話をして、第3回の時間を閉じました。
3学期に、あらためて第4回を企画できればと思います。
今回の学習を、生徒感想を中心に記録した「人権だより」として10号から13号まで発行しました。どうぞご覧ください。
26日、4日目。この日も朝食なしのため、近くの横浜ランドマークタワーのスターバックスで朝食。
そして、どうしても行っておきたかった、第五福竜丸展示館へ。
入館すぐに目に飛び込む、第五福竜丸の大きな船尾。そして、次から次へと並べられたパネル展示。その一つ一つに目を通していくと、今まであまりにも自分が知らなかったことに、愕然としました。あれだけ広島に、そして長崎に行っていたのに、ここのことはまったくと言っていいほど知らなかったことに、茫然としました。
福竜丸が航行したルート。乗組員が受けた差別。
「福竜丸の乗務員から結婚してくれと言われたらどうします?」
「えぇっ、あんな人たちと結婚。とんでもない」
乗組員の家族の悲痛な思い。
「家へ帰れるようになったら、私たちを動物園に連れて行ってあげるよと約束してくださったお父ちゃんなのに、今は私が、「お父ちゃん、みやこよ」と耳元で呼んでも何とも返事をしてくれません。昨日も今日も重体のままです。本当に悲しくて、お父ちゃんの枕元で泣いてしまいました。先生、お父ちゃんを助けてください。」
その水爆は、広島型原爆の1000倍の威力だったといいます。広島型原爆1個で、あれだけの酷い惨状になるものを、アメリカは当地で67回の核実験を起こしているのです。アメリカ本土やソ連などの核実験も入れると、その回数はもっと多くなります。
人類はどこまでバカなのか。
廃船となり、捨てられる運命にあった第五福竜丸。それを残そうと立ち上がった運動。それがなければ、この「生き証人」はなくなってしまっていたわけです。
当時、汚染され、廃棄されたマグロは485.75トンにのぼるといいます。その多くが東京築地に埋められたことをしっていますか。場所は変わりましたが、マグロを偲ぶ「マグロ塚」が、外にひっそりとありました。
知っていたようで知らなかった、第五福竜丸被爆の実相。すぐ近くには、東京大空襲戦災資料センターや東京ディズニーランドもあるというのに、どうして来ていなかったのか。。。惜しい!
東日本大震災での原発事故があったにもかかわらず、SDGsにもとづいた脱炭素の流れやエネルギーの安定供給を言い訳にして、日本は原発の運転延期や建て替えを進めようとしています。核と人類は共存できないことは歴史が証明しているにもかかわらず、どうしてこんなこんな方向に進んでいくのでしょうか。
ハンセン病政策にしろ、「殖産興業・富国強兵」を旗印にした環境汚染にしろ、人を人と見ず、虫けらのように扱ってきた歴史があります。そして今も、現代版「殖産興業・富国強兵」へと舵が切られているように感じます。そのもとでは、あるべき人権・平和・環境は守られません。
歴史に目を向けず、未来だけに目をやれば、間違った方向に進んでしまいかねません。今一度、史実にしっかりと目を向け、歴史に学び、そのうえで未来を見つめていく必要があるのではないでしょうか。
25日、3日目。この日は、当研究所が所属する国連NGO横浜国際人権センターの杉藤会長の講演会に同行する予定。
朝食がないため、せっかくなので、早朝の渋谷の街をふらふらとひとり歩き。テレビ画面でよく見るスクランブル交差点を見おろすスターバックスで、朝食をとりながらひと仕事。
朝の、誰もいないひっそりとしたターンテーブルに別れを告げて、神奈川県川崎市へ。駅構内で、センター職員の齊藤さんと白川さんに合流し、下小田中小学校へ。そして、杉藤会長に再会!
午前、すでに別の小学校での講演を終え、本日2本目の講演会。「国境なき医師団」や、世界を渡り歩いたご自身の体験談など、1時間弱の熱いお話しに、小学6年生も吸い込まれていくようでした。年間100本を超える、神奈川県内の学校講演会をこなす杉藤会長の熱意はすごいです。
この日はこのまま、再会を喜び合い、夕方から食事を共にしながら、たっぷりと人権談義に盛りあがりました。学校の人権教育の現状や、今の社会の現状、これからの日本や、私たちの取り組みについて、あれやこれやと大盛りあがりでした。
街も人も、もう横浜はクリスマス一色の賑わい。今回の旅も、あと一日。充実した気分で、横浜の夜を過ごしました。
24日、2日目。その日は、念願の一つ。足尾銅山と田中正造の旅。
朝から温泉。強酸性の攻めてくるような水質に、皮膚の病に効くかもしれない、という気がしてきます。療養所へ源泉を引き込んだ、ハンセン病者の「こだわり」も分かる気がします。
朝8時には黒尾氏の迎えで車に乗り込みました。晴れ間は見られるものの、強い風と吹雪のような霧雨。しかしそれも、山を下りるにしたがい止んでいきました。それがやはり山の気候であったことを知ります。
気軽にお願いした足尾銅山への旅ですが、現地到着予定時刻は11:30。かかる時間の長さに閉口してしまいます。それでもやっと着いた、足尾。眼前に広がる岩剥き出しの山々。往時を偲ぶ、高く大きな煙突。強者どもが夢のあと。
資料センターとはいうものの、内容的にどうか、という気がしました。。。 鉱毒事件の悲惨さを感じない、これが、古河財閥の影響を受けた上流意識の現れなのでしょうか。
木がないと山は崩れる。そのための砂防ダム。とはいうものの、あまりにも巨大な砂防ダム。もはやそれは、水力発電用のダム並みでした。
銅山をぐるりと走り、館林の田中正造記念館へ。そこまでも約2時間かかるという長時間、長距離の運転に、黒尾氏に本当に申し訳ない気持ちになります。
美観地区に、雰囲気のある趣の門構え。しかし本当のところは、市から古民家を借り受けて改装をしたそうです。中身は、すべて手作り。その手作り感が良い。先のセンターとは、携わる人の熱量の違いを感じます。
館の方に説明をお願いすると、一つ一つの資料にていねいな解説がされ、ついつい引き込まれてしまいました。うんうん、そうそう!と思いながら耳を傾けます。
官製ではなく、手作りの資料館という道をなぜ選んだのか、と訊くと、しがらみや制約により、事件の真の姿が曖昧にぼやけてしまうことを危惧したから。水俣病センターの相思社や、当研究所に通じるものを感じました。やはり来て良かった。次回は足尾から館林までの一泊二日ウォーキングフィールドワークにと誘われました。(笑)
館林駅まで送ってもらい、黒尾氏とはここでお別れ。単身、渋谷に向かいます。渋谷にあるという、徳島のアンテナショップ&ホステル、「ターンテーブル」。
徳島から来たことに歓待を受けました。スタッフの方に気安く声をかけていただくうち、共通の知り合いに辿り着き話が弾みます。泊をするなら、こういう泊がいいと思えてきます。そんな徳島でのネットワーク、徳島の地の本当の魅力、四国88カ所に、瀬戸内の島々とサイクリングについて語らいました。
予想外に美味しかった、鳴門わかめのピザと、柚の天ぷら。鳴門金時の天ぷらにアイスを添えると、新しいスイーツになると提案して店を出ました。
やはり旅の醍醐味は、人との「出会い」ですかね。
人生最後のリフレッシュ休暇を使い、新型コロナも相まって行けていなかった場所へ、ようやく行くことにしました。
22日を0日として、1日目の23日、8時には横浜を、9時には上野を出発し、群馬県草津へ。徳島感覚で侮っていました。草津は遠い。。。
特急なのに、到着時刻は11:24。徳島から3時間半もかければ、いったいどこまで行けてしまうのか。京都よりも先か。
あいにくこの日は、前日までの好天とは打って変わって、冷たい雨。空の小さい都会地を抜け出し、次第に広々とした関東平野に。雲は低く垂れ込め薄暗く、寒さがいっそう体の芯に落ち込んでくるようでした。
低く暗い雲に確認できなかったのですが、気がつけば突然目の前に山の峰峰が。山を見て気持ちが落ち着くのは、島国四国の人間だからでしょうか。
長野原草津口駅に着くと、小さな駅の割に多くの人。草津温泉の賑わいをほんの少し感じました。
改札を出たところに、よく見知った、重監房資料館黒尾氏の顔を見つけ、自然にほころびます。迎えの車に乗せていただき、草津温泉「湯畑」をぐるり一周案内していただき、栗生楽泉園へ。社会交流会館で紹介用の映像を見てのち、学芸員の方に館内を紹介していただきました。
観光地で有名な、あの「湯畑」周辺にかつてハンセン病者が居住していたこと。そしてその地を無理矢理奪われたこと。代わりに湯川の最下流部「湯之澤」に住まわせられたこと。そこはかつて死人が投げ捨てられていた「骨が原」と呼ばれたところだということ。
しかしそんな冷遇下においてもハンセン病者は、その地を自由療養村として、飲食店、小売業、呉服屋、鍛冶屋などをつくり、自由の天地として発展させたこと。
しかしその後、昭和6年のらい予防法により、湯畑からさらに離れた、新設の楽泉園へと再度移住させられたこと。そんな歴史を見知りました。多磨全生園とも、大島青松園とも、長島愛生園とも違う歴史を感じました。
社会交流会館から重監房資料館に向かう途中、重監房跡地に魂を預け、資料館に向かいました。
まず、胸を打たれたのは、納骨碑。そこに刻まれた、「いつの日かその名を刻めることを願って」。言葉の重さが、胸底に深く落ち込みました。
紹介用の映像を観たあと、重監房を再現したレプリカに立ち入っていきます。入り口には、名ばかりの「特別病室」と書かれた表示。1日2回の食事のレプリカ。使われた形跡がほとんどない診察室。脱走できない厳重な作り。冬にはマイナス20度にもなるこの地。しかし、何の暖房設備もあるわけもなく、せんべい布団で凍死していった収容者。私には、戦後シベリアで抑留され、飢えと寒さで亡くなっていった人々と重なりました。
何の記録も残ってないなかで残された、食事を運び、遺体や収容者の世話をした方々のいくつもの証言に、罪なく逝った人々にとっての「生きる」意味とは何だったのかと、思わせられました。
閉館時刻を大幅に過ぎての退館に深くお辞儀をし、資料館をあとにしました。予約していた旅館に入り、大雨のなか湯畑を散策し、夕食をとり、ゆったりと内湯の源泉掛け流しを独り占め!
あとは、強く打ちつける雨音を聞きながら、W杯ドイツ戦に、ひとり叫び声をあげる夜となりました。チャンチャン。
11月17日(木)、あいぽーと徳島の主催で、水俣病についての講演会がありました。
九州熊本の水俣市にある水俣病センター相思社から、永野さんが遠路はるばるおいでていました。
https://www.soshisha.org/jp/
相思社の永野さん、徳島県博物館の長谷川さん、あいぽーと徳島の中山さんの4人で、その夜、ささやかなウエルカムパーティーを催しました。
話していけば、水俣病について知っているようで、実はあまり知らないことが少しずつ明らかになってきます。歴史の1ページのようなイメージが、「現在進行形」であることに気づかされ、愕然とします。
こんなメンバーが揃えば、出てくる話はあっちへこっちへと飛び回り、聞いてるだけでも本当に楽しい時間でした。
当HPで何度もupしたことのある豊島の石井さんともつながっていて驚き、来週人権の旅をする先のハンセン病重監房資料館黒尾さんともつながっていて驚き、人はどこまでもつながっているなぁとしみじみ思いました。
私の学びなんかまだまだです。そして、もっともっと学んでいきたいと思います。
今回、永野さんの書かれた「みな、やっとの思いで 坂をのぼる」を紹介していただきました。
ちょうど前に読んでた本を読み終えたところだったので、しばらくは、じっくり読んでみようと思います。そして相思社へも、いつか必ずお邪魔したいなと思います。
10月4日、慌ただしかった9月を終え、2学期最初の学年全体人権学習を行いました。
今回のテーマは「SDGs(持続可能な開発目標)」。昨今流行りのテーマです。でも、それを人権に視点を置いて取り組んでみました。
各クラスではまず、「SDGsとは何か?」について始めたのですが、思いのほか子どもたちはよく知っていました。小学校ですでに学習してたのです。
小学校の学びに、成長に合わせた何をプラスしていくか。それがないと、同じことの繰り返しとなり、学ぶ意味がなくなってしまいます。はてさて、どうなったのでしょうか…。
1.それぞれのクラスでしてきた学習について思ったこと,気づいたこと,考えたことについて語り合いましょう。
「命とは大切なもので、平等でなければならないものである。またジェンダーだからといって自分たちと違っていても、バカにしたり仲間はずれにしてはいけない。そして世界には男女平等でない国がある。日本もそうです。国会議員は男性の方が多いので、そこからなくしていったらいいなと思いました。」
「私はインターネットにまつわる学習をした時に、私たちは普段スマホを使っていて、よくインターネットを利用しているけど、世界にはネットを利用できない人もいることを知りました。インターネットは便利だけど、その便利なインターネットも使えなかったら意味がないものなので、全世界でインターネットが使えるようにするために、どんな活動をするかを調べました。でもインターネットを使えない人がいるからといって、インターネットだったら見てない人もいるし大丈夫かなと思って個人情報を載せたり他人を不快にさせるような発言を載せるのはダメだと思うので私はそこを気をつけようと思いました。」
「学んだことは、SDGsを良くするために身近にも気づいていない環境への取り組みがたくさんあったことが分かりました。例えば環境に優しい魚のマークが2種類あったり、食べきれない食材を集める場所、スーパーに持って行って地域の人と共有できる場所、そんな場所があることを知りました。でも僕はそんな場所を知らなかったので、しっかり活用しないともったいないし、しっかり活用していくことがSDGsをなくすための一つの方法だと分かりました。」
「初めにSDGsのことを学ぶ前は、海とか陸の気候変動とかの自然のことしか知らなかったんですけど、学び初めてジェンダーとか国の身分の差とかをなくしたりしようという活動があることを知って、いろんなことがSDGsの目標になってるって知って、自分もその目標を解決していくことが、一人一人が考えていくことが大事なんじゃないかなと思いました。」
小学校で学んでいても、すべてのことについて学んでいるわけではないということが分かりました。ということは、17の目標がうまくつながってなかったということです。まだまだ学ぶ余地がありそうです。
2.SDGsに反するような行動は,世界で,日本で,みなさんの身のまわりで,何を引き起こしているでしょうか。また引き起こしてきたでしょうか。あなたはどうでしょうか。
「世界や日本では海洋ゴミの、海洋プラスチックのポイ捨てなどが起こっているけど、日本だけで言えば、さっき言ったように国会議員が男性が多いという10番の平等が守られてないなって思います。僕は電気をつけっぱなしにしていて、電気が使えないところがあるのに、ムダに使っていたので、ムダに使っていいと思わず、これからも気をつけていけたらなと思いました。」
「飢餓の問題では、私は最近は給食を完食できるように頑張っているけど、前までは食べ物がなくて苦しんでいる人がいることを知っていたにもかかわらず、嫌いだからという理由で給食を残していました。でも今考えると、たくさんの人が飢餓の状態になっている瞬間に、私が食べ物を残すというのは、ダメなことだったなと思います。私のクラスでは最近給食を完食できることが多いので、引き続きこれからもそれを続けていけたらなと思います。」
「最近のニュースでよく異状気象とかいってゲリラ豪雨とかいろんな災害が起こってたりするんですけど、そういうことはSDGsに反することで、起こってるんじゃないかなと思います。異状気象っていうのは、続いていないから異状なのであって、これがずっと続いていって、これから100年とかずっと同じことが起こっていたら異状じゃなくなると思うんで、これが異状であるうちに止められるように、プラスチックのこととか、食品ロスのことだったりっていうのを止めていかなければと思います。3組はたぶん2組に比べて残す量が多いと思うので、一人ずつがちょっとずつでも食べれたらいいなって思ってます。」
「私は小学校のときからずっと周りで暴言をいっぱい言う人たちがいて。私は意識して、そういうのを言ってしまったら謝ったり自分で工夫して直そうとしたけど、他の誰かに嫌なことを言っている人は、考えている人もいるかもしれないけど、よく考えていない人が多いと思うので、誰かの良くなった行動が誰かの人権を否定しているのかもしれないと思いました。」
「SDGsに反する行動は身のまわりにたくさんあると思います。例えばポイ捨て一つで森林が破壊されてしまって生態系が破壊されてしまう。それは自分たち以外の生き物に迷惑をかけていておかしなことだと思います。他にもシャワーの出しっぱなしで水不足になり、安全な水がなくて困ってる人もいます。他にも料理の作りすぎで食品ロスが増えてしまったり、給食の食べ残しで食品ロスがまた増えてしまう。自分たちに何の被害もないから何も関係ないと思っていって小さいことと思うけど、小さいことが積み重なって大きな問題になっていくので、こんな小さいこともちゃんと気にして解決していくことが大切だと思います。」
一人でいっぱいはなかなか食べられない。食べられる子もいるけど、一人でいっぱいは難しい。一人が一人が少しずつ頑張れば、食品ロスも減らせられるかもしれない。
暴言やいじめもSDGsに結びついている。そんなことでは17番の「パートナーシップ」は達成できていかない。関係ないことではなくて結びついている。
「新聞切り抜き作品コンクール」に取り組んでもらったが、「平和」は16番の目標になる。戦争が起きれば人は取り残されていく。誰一人取り残さない、とはならない。
こんな話にあわせて、「衛生的でない水を使うことで、乳幼児の赤ちゃんが毎日800人亡くなっている。また飢餓で、子どもが毎日7000人亡くなっている。」こんな話をしました。私も知った時は驚きましたが、私からこの話を聞いた子どもたちも驚いていました。そんな感想を人権だよりにも載せています。
3.そのことによって取り残されてきた人(対象)は,どんな思いでしょうか。想像したことを語り合いましょう。
「僕たちみたいに一緒に学校に行ったり、美味しいものを食べたり、いろいろな物を買ったりして平和に暮らしたいなと思ったりして。人以外の動物、ライオンとか虎とかは、なぜ人たちはゴミを海に捨てたり、地球温暖化につながる物を燃やしたりを続けているんだろうと思っていると思います。」
「飢餓で困っている人はお腹がすきすぎて何もできないような状態になっているのではないかと思いました。私は食べることが好きなので、もし食べられる物が何もないとなったら、どうなるのか想像もつきません。今こんなに食べることができているのは当たり前ではないなとあらためて気がつきました。」
「このことによって変わると思いますが、このことがもし戦争だったら、いまだったらウクライナとか。この国に生まれたくなかったとか、生まれてこんで良かったって思うかもしれない。自分だったらそう思いました。この国に生まれてなかったら、もしこの世に生を受けてなかったら、苦しいことやつらいことがなかったのにって思ってしまうかもしれません。でもそう思うってことは、自分を頭から否定するってことなので、それが一番、どれだけ人に何か言われてても、自分が自分のことを信じとかないろいろダメになると思うので。自分を信じられなくする。いろいろあるんですよ、戦争だけじゃなくて。人と違うことが当たり前なのに、人と違うことでバカにされたりすると自分のことが信じられなくなるので、自分のことが信じれる。もちろん周りの人が信じてあげることも大事だけど、自分が自分を信じれるっていう環境が大事だと思いました。」
「SDGsの11項目目に住み続けられる町づくりをっていうのがあって、立場の弱いお年寄りや障がい者の人にとって、住みにくい町だったら、それで取り残されてしまった人々は、自分の生活がより一層不安になって不安な毎日を送ると思いました。」
「さっき誰かが言ってたように、取り残されてきた人もそうだけど、動物とか海の生物だったら亀の鼻にストローが刺さってる写真とかクラゲが好物の魚とかは、ビニール袋を間違えて飲んでたりしている写真を見たことがあるので、自分たちだけじゃなくて自分たちがしたことによってどんな影響が周りに出るのかとか、人間のこともちゃんと考えないかんけど、自分たちのしているポイ捨てとかによって他の動物たちも傷ついているんじゃないかなって思いました。」
「前に特攻隊員の人たちの物語を読んで、出撃命令が出て嬉しいって言ってた場面があったんですけど、戦争によって取り残された人は、私たちとは逆に死が近いので、怖いっていう感情がないのかもしれないと思いました。でも怖いっていう感情がない、KKさんも言ってたんですけど、自分がなくなるのが本当に一番怖いと思いました。」
「地球っていうのは、たぶん一つのシェアハウスなんですよ。いろんな鳥とか亀とかいっぱいで一つの家なんですよ。それで災害っていうのは、例えば水漏れとか壁が壊れたりとか、そういうことなんですけど。その水漏れになったりとか、食べ過ぎて食料がなくなったりとか、壁が壊れたりっていう地球の被害は、全部一人の人、人間が起こしてることやけん、シェアハウスに住んでるって考えたら、例えば人間で考えたら、自分一人だけで家の冷蔵庫の中身全部食べてしまったり、家の壁バンバン壊してたり、そういうことだと思うので、そうやって身近に例えて考えたら、もっと分かりやすくなるし、もっとやってることが身近に分かりやすくなるのじゃないかなと思います。」
「戦争や貧困、食べ物がなくて安全な水もない、そんな人たちは、僕たちは家に帰ったら親がいて、お風呂に入れて、晩ご飯が食べれる。けど当たり前の生活が戦争や貧困の人たちにはないと考えたら、自分たちも、自分も苦しいと思います。また独りだけ取り残されているので、孤独を感じて、悪いのは自分なのかと考えてしまうのじゃないかと思います。自分を責めてしまって、自分を責めることないのに責めてしまって、すごく苦しい毎日を送っているので、悲しいなと思います。」
「もし私が、ジェンダーで不平等だったり、ヤングケアラーだったり、戦争が起こった国だったりで取り残された人だったら、自分でSOSを出したりすることができないと思うし、そういうことができない状況であるかもしれないと思いました。最悪自分の意思で助けを求めたいと思っても、それ以上潰されてしまうこともあって、つらい気持ちになることがあるのかなと考えました。そんな人を一人でも減らすために、個人の意識や行動を変えること、そして周りに広めること、伝えることが大切なのかなと思いました。」
「取り残された人はどんな気持ちなのかで考えました。私が小学校の頃に見たビデオでは、どこかの森林の木を切っている親子の話を見たんですけど。そのときにお父さんとお母さんが木を切りに行ってて、その木を発注した人が注文した木の数が多すぎて山が崩れて、その作業をしてたお父さんとお母さんが亡くなったという話を見ました。取り残された子ども、娘さんの話を撮影していたものがあったのですが、その話を見たら、何回もその子は親を返してほしいってずっと叫んでいたのを思い出しました。これは他のことにも言えることで、飢餓で苦しんでたりする人は、さっき先生が言ってくれたように子どもとかが亡くなっていたり、たぶんその親の人もその子が産まれるのを楽しみにしていて愛していたと思うので、一人が取り残されたらまた誰かが取り残されてしまうんじゃないかなって思いました。」
自分が自分でなくなってしまうことの怖さ。自分が自分を認められなくなることの怖さ。子どもたちはいろんな想像力を働かせ、自分の身に置き換えて、つながり合いながら語り合いました。
4.みなさんは何のために日頃の勉強に取り組みますか。それとSDGsはつながりますか。みなさんは2030年に,どんな未来を思い描きますか。語り合いましょう。
「私は人がする仕事すべてにSDGsが関わっていると思っています。職業によってはSDGs達成のために配慮する側にもなりえると思うので学んだことを、将来自分のすることに生かして、よりよい社会を作るために私たちは勉強していると思いました。そしてSDGsが達成できるかどうかは、それを学んでこれからの社会を作っていく自分たちにかかってくると思いました。」
「2030年は二つの未来があると思います。まず一つめはバッドエンドですけど、ウクライナ戦争がきっかけで世界大戦につながって核戦争にもなって、人類が滅ぶエンディングと、二つめはいろいろなSDGsも解決されていて、より豊かな世界になっている二つの未来です。他にもいろいろ未来がありますが、一番可能性が高い二つをあげてみました。終わります。」
「私は将来のために日ごろ勉強に取り組んでいます。個人的にはそれとSDGsがつながっていると思いました。なぜならSDGsは将来地球温暖化が急速に悪化しないようにこれ以上貧困や飢餓などでの死者を増やさないためなどのゴールがあるからです。2030年に描いた未来は、2030年にどんなふうになるかは私たちが何をするかによって変わると思うので、SDGsの取り組みをしっかりと学んで私たちにできることをしていこうと思いました。」
「自分たちのためや世界のために、日ごろの勉強に取り組んでいきたいし、それもSDGsにつながると思いました。2030年にはSDGsが達成できても、気を抜いてはいけないと思いました。」
「僕は勉強のできない人の分を背負って勉強をしているのと、将来いい職業に入るために勉強しています。この日ごろの勉強は、SDGsにつながると思います。なぜなら、質の高い教育をみんなにという目標があるので、僕はつながると思いました。未来には悲しい思いをする人がいなくなり、みんな平等になっていると思います。なぜなら、みんなが工夫したらできることを、SDGsは並べていると思っているから、そのようになると思いました。」
「私は普段している週に5日ある授業の中でたぶん全部SDGsに関わりがあると思うけど、道徳と総合の授業は特に関わりがあると思いました。なぜかというと道徳の授業は人の心とかを言ってるものが多くあるからです。私は道徳の授業で人としての心、他人を感じる心を学ぼうと思いました。」
「SDGsでさっきみんなが工夫してやればできると言いましたが、大人にしかできないことは、まあいろいろあると思います。子どもだけで小さなことするってこともSDGsにつながると思います。例えば食品ロスをなくすために、みんなで給食を完食するとか。クラスで小さないじめなどをなくすとか。そんな小さなことでもSDGsを増やしていくことでSDGsで目標を破ることができると思います。」
「まず勉強が何でつながるかって聞いて、一番に思い浮かべるのは、社会人になってからの就職先の選択を広げるためだって私はすぐに思います。その就職する先とかにもよって変わってくるけど、例えば普通のサラリーマンとかだったら、通勤の時とかによって変わってくるし、物を作る会社だったら、SDGsにプラスチックを使うのを減らすとか、そういうことにつながるだろうし。自分のやりたいことをやりつつ、社会に貢献できるようにするために勉強をしているのだと私は思います。」
「正しく知って、正しく行動する」元ハンセン病患者キム・テグさんの言葉ですが、それに加えて、若いみなさんの想像力や柔軟で豊かな「感性」。「仲間」を巻き込んでいくコミュニケーション力の大切さと必要性をお話ししました。
最後に、「自分はどんな自分になっていくのか、どんな自分であり続けるのか」。また「コロナが収束しコロナ前に戻っていいのか」と問題提起して、次回の全体学習があることを約束して、今回の学習を終えました。
回を追うごとに、発表回数も、発言者も増え、どこか発表することを楽しみにしているように感じました。やはりみんな、「自分を表現したい」と思ってるように思います。こんな時間を積み重ね、3年かければどんな子どもたちに成長できるのか、見てみたいなと本当に思います。みなさん、よくがんばりました!
2022年9月19日付けの地元紙、徳島新聞1面のコラム、「鳴潮」に、当記者さんが原稿を書いてくださいました。
これはすごい!!!
記者さんとの出会いは古く、応神中学校勤務時代にまでさかのぼります。当時は平和学習についての取材だったのですが、その後もずっと覚えていてくださり、2021年3月17日に八万中学校体育館で行った、1・2年合同人権学習に取材に来てくださったのが事の発端でした。
そのときのテーマが部落問題で、シンジとはなちゃんに登壇してもらい、出会ったわけです。
当時の記録や人権だよりは、当HP「八万中学校」からご覧になれます。
今回、人権を語り合う中学生交流集会+’22にあらためてシンジが登壇したこと、その中身や決意、覚悟をお知らせしたところ、気持ちが大きく揺れ動いたらしく、記事に書いてくださることになりました。
県内外を問わず、同じような思いで気持ちが揺れている方、特に若者は多いと思います。そのような話は、個人的に教え子たちからも聞きます。
本当は揺れる必要などないことです。
堂々としていればいいし、隠す必要だってないことです。
にもかかわらず、どうして言えないのか。
言えない本人が弱いのか。
違います。
そこに差別を感じてきたから。
そこに差別があると知っているから。
そこに差別があるからです。
なければ、気兼ねなく言えます。言えないのは、この社会に、人を蔑んだり、バカにしたり、のけ者にしたり、いまだに非科学的な言い伝えを何の疑いもなく信じ込む風潮があるからです。
私たちは本当にちゃんと同和教育をしてきたのでしょうか。
ちゃんと残るような同和教育・人権教育をしてこられたのでしょうか。
「差別・被差別」の立場を起こしてきた当事者として、私は目を背けることができません。
これは、私の人間としての責務です。
物語は完結しません。
シンジの娘さんは、「これから」を迎えるのですから。
でも、私たちは知っています。彼女には大きな大きな、本当にたくさんのまだ見ぬ仲間がいるということを。
記事にすればこれだけですが、その脇には、ここに書けない多くの思いや出来事が、サイドストーリーがあります。今はそれをまとめているところです。何かの形になればと思っています。
物語は終わりません。
なお、今回シンジが登壇した人権を語り合う中学生交流集会+’22の記録については作成中です。作成でき次第報告書にしますし、当HPにもアップしますのでご覧いただければと思います。
7月16日(土)、午後から開かれる第48回部落解放文学賞の表彰式に出席するため、大阪に向かいました。
「ジャージでは行かれんでよ」という仲間のアドバイスに忠実に従い、スーツで参加させていただきました。
会場は弁天町駅前のアートホテル大阪ベイタワー。見上げるような51階。
これ眉山より高いんちゃうん、と思いながら見上げました。
受付であたたかく迎えていただき、過分な「交通費」と「副賞」をありがたくいただき、会場へ。
厳粛そうであり、そうでなさそうでもあり、特に緊張するでもなく、席に着きました。
(席には大きく「吉成正士様」の札)
隣の受賞した方とおしゃべりしていると、時間に。
代表の鎌田慧さんからの言葉に、「ほー、そんなに意義深い文学賞だったのか」と感嘆。
各部門別に講評がされていくのですが、小説部門の方のありがたいお言葉。
批評もありましたが、そんなのはあって当たり前。
どちらかといえば、自信につながる講評でした。
受賞者からの5分ほどのスピーチには、驚かされることしきり。
世の中は広いものです。すごい人はいるものです。
それもこれも、外に出ないと分からない。
だからみなさん!外に出ましょう!
自分のスピーチはというと…ダメでしたね。逆に自信をなくしてしまうスピーチでした。。。
その日の夕食は、せっかくなので、ちょっとだけ贅沢して、51階のレストランで。
夜景を眺めながら美味しくいただきました。一人、というのが、ちょっと、、、ね。
翌日は、今回のメイン?かもしれない、映画「破戒」。
徳島では上映されないから、本当にナイスタイミング。
梅田ブルク7で、朝の10:20から。にもかかわらず、ひとがいっぱい!
劇場内も、満席!徳島でこんなの見たことない!
「「破戒」、入ってるやん!流行ってるやん!」てな感じ。
徳島でもやってよー。
ストーリーはご存じの通りだけど、100年前と今の何が違う?って気にもなった。
変わりはしてるんだけど…。
ラストは、、、ちょっと、アレです。はい。観てください。
今回の文学賞について、「受賞のことば」や「選評」、また入選4作品を載せた増刊号(1000円)が発刊されます。
私にも10部いただけるということですので、関心のある方はご連絡ください。送らせていただきます。 こちら
私の作品は載ってませんのであしからず。
以上、表彰式の報告でした。
先日、私吉成と、森口の両名で、広島から福山、香川県豊島を巡るたびに出てきました。
「差別・被差別を超える人権教育」を書かれた、原田彰先生にお会いするためです。
「差別・被差別を超える人権教育」は、板野中学校で取り組まれた全体学習の授業記録をもとに、差別・被差別を超えた仲間づくりはいかにして為されていったのかを分析的に記した研究書です。
私たちも、この一冊から、あの時の取り組みを俯瞰的に考察することができました。そんな原田先生には感謝するばかりです。
写真の通り、顔の色つやも良く、まだまだお元気そうな様子でした。これからも様々な面からご示唆いただけることを楽しみにしています。
原田先生との短時間の面会のあと向かったのは、福山市にある、「八ツ塚実資料館」。といっても、八ツ塚先生のご自宅を資料館にしているので、公には知られていない穴場です。
駐車場の2階・3階には、「倉庫」でもあるかのように、所狭しと数々の教材・教具が並べられていました。これはもう、凄まじいとしか言いようがありません。
数々の記録。生徒が書いた記録。
動物の骨格標本や、マンモスの歯の化石、鯨の脊椎骨。
本物の「圧倒的な力」に出会わせることの大切さ。
玩具を玩具としてだけ見るのではなく、その奥にある凄さを感じとらせる工夫。
壁に掛けられた、訴えかける言葉、親へのメッセージ、私たち教師へのメッセージ。
そして、学級づくりを進めていくうえで、指導者として肝に銘じておかなければならない、表現力、企画力、演出力。
言われて、「確かに」と頷いてしまいます。確かに知らず知らずのうちに、腐心し、注力してきたことでした。
子どもの目を、心を釘付けにしてしまう、本物教材の提示。そのプレゼン力。常に自分に問い続けてきたことでした。また、惹きつけられる子どもたちのまなざしに、こちらも本気になったものでした。
数多くのスクラップブック。
そこには、平和学習、ヒロシマ、原爆に関するもの、隣県の渋染一揆に関するもの、また漫画に見る人権についてまで、ジャンルを問わず、子どもたちの身近にある人権についても資料化されていました。
そして、「アッと笑い、ドッと笑い」に象徴される、いじめ問題について深く考察していた跡も。
スクラップブックには他にも、食肉に関することなど、本当に教材の宝庫でした。
なかでも私が惹きつけられたのは、「『たった一人で』でもやれるか」のページ。これは本当に大切。差別問題、人権問題を考えるとき、私が何度も行き着いた問いでした。いじめ問題だってそうです。仲間は大切で、必要で、仲間をつくる力は大切ですが、どこかで、「たった一人でもやる」覚悟がないと、本当の仲間はつくれないように感じてきました。その覚悟について考えることはすごく大事なことです。
他にも、「君は何を宝物にしますか」という問いかけも、深く考えさせたい授業です。
福山をあとにして向かった先は、宇野港から船に乗った先、小豆島の西にある小さな島。豊島。
かつて、産業廃棄物不法投棄事件で全国的に話題になった島です。
昨年1年間、何度も訪れ、取材をし、小説「光跡 #ボクらの島」に描いた島です。民泊植松にお邪魔するのは今回で2回目。ずっと話を聞かせていただいている石井さんとは、初めて一献できる機会となりました。
本当は料理の画像をあげたかったのですが、気がつけば食べちゃってました。wwww
けど、本当に美味しい手作り料理でした。お店で食べるのでなく、ホテルで飲むのでもない、気が許せる家で「家呑み」でもしているかのような、ゴロンと横にでもなってしまいそうな宴でした。
翌朝、山からの鳥の鳴き声で、気分良く目覚めました。
朝から美味しい食事をいただき、(またしても写真撮るの忘れた)そのあとは、「豊島自然の家」の見学をさせていただきました。もとは小学校だったものを、宿泊できるように再生したのだそうです。
炊事場に、大きな和室、二段ベッドに、野外BBQ。
その昔はどこの学校にでもあった、宿泊訓練や、一泊研修。新型コロナの影響で修学旅行すら短縮されたり、なくなったり。野外炊飯やキャンプファイヤー。そんなことが、いつかここに来てできたらなーと、思います。差別や人権、自分たちのことについて、じっくり語り合えたらなーと、思います。
いつかみなさん、どうですか???
こんな旅をしてきました。
そしてつくづく思うのは、人と会うことの大切さ。新型コロナの影響で、本当にこの2年、外の人と、見知らぬ人と、出会い話す機会を失いました。
今回のような機会があって、あっ、そういやこんな感覚だった!と思い出します。そして、人と出会い、話すことの大切さにあらためて気づかされます。当たり前だと思っていたことは当たり前ではなく、すごく貴重な場だったことに気づかされます。
リスタートできる日も近いかもしれません。そのときはみなさん、、、よろしく。
4月入学。GWをはさみ、そして約1ヶ月。
できるだけ早い時期にと、5月17日、念願の、1年生による学年全体の人権学習を開くことができました。テーマは、「自分を語る」。なぜ、自分を語る必要があるのか。自分を語ることなくして、人を知ることはない。互いを知り合うことなくして、認め合うこともない。認め合うことなくして、真の仲間づくりにはなり得ない。仲間づくりが人権学習の基本であることを考えれば、これは避けて通れない大切な道であることを、全体に話しました。
2年前の「人権を語り合う中学生交流集会」のダイジェスト映像を全体で視聴します。そこには、コロナ差別、臓器提供、見ため差別について、「自分を語る」中学生の姿がありました。
その姿と、自分を重ねるように、全体学習は始まっていきました。
1.中学生になって約1ヶ月。入学する前は、どんな気持ちでいましたか。入学してから1ヶ月は、どんな気持ちで過ごしてきましたか。
「中学校に入学する前は、中学校楽しみだなってワクワクしていたんですが、入学して1週間ぐらいは緊張して不安でいっぱいだったんです。なぜなら仲のいい友達が一人も、一人もっていうわけじゃないですけど少ないし、新しい環境に慣れてなかったので。だけど仲が良くなくても話しかけてくれるクラスメイトとかたくさんいたし、だんだん仲良くなって楽しくなってきて、それからは中学校に来るのが楽しくなってきて嬉しかったです。それがこれからも続いていったらって思います。」
「最初の入学前は八万小学校の中で、八万南の人は怖い人ばかりっていう噂がたっていたので、八万南の人はどんな人がいるんだろうと少し不安に思うことがありましたが、でも今はクラスの中でもたくさん友達ができていてすごく楽しい1年間になりそうだなとすごくワクワクしています。」
「入学する前は他の学校の人たちと交ざって学習することにとても不安を感じていました。いじめられたらどうしようや、きっと他の学校の人は怖いと思っていたからです。入学してからは分からないことを教えてもらったり、話しかけたりしてくれて、とてもやさしいと感じました。入学前に思っていたことは思い込みだったということに気がつきました。」
「入学する前はワクワクドキドキする気持ちで、どんな子がいるのかな、新しい友達はできるのかなと、期待と不安を背負っていました。でも入学して他の学校だった子はすごくやさしいし、いっぱい話しかけてくれたり元気よくあいさつをしてくれたりしました。友達できるかなと不安に思っていたけど新しい友達がたくさんできて今は楽しい学校生活が送れています。でもまだあまり話せていない子もいるので話したいなと思っているし、今の友達とももっと仲良くなりたいなと思って、いま学校生活を送っています。」
思い込みで決めつけていた1年生の姿がありました。やはり出会うこと、つながること、直接関わることだと思います。知らないことは、差別や偏見につながる可能性があるからです。そのことを生徒の発言から実感する時間となりました。
2.あなたのこれまでの人権についての学びを教えてください。これまでに小学校や家庭,ネットやテレビ、本などから、どんな学びをしてきましたか。また、そのことについてどう思いましたか。
「水俣病について調べたりしてタブレットで調べたりして実際に水俣病に罹った人のことを聞いたりして、やっぱり環境問題から始まってるんだなと思いました。水俣病は水銀で病気に罹ってしまうので、工業から魚から人間ていう流れになっていると聞いたことがありました。工業廃水は体にとっても悪く、後遺症になることが分かりました。」
「小学校の6年生は力を入れて部落差別を主に学んできました。今まで部落差別については知らず、歴史を学習したところにいました。授業をしてからは本などで、部落差別について読んでみたり、なくしていく発言や行動をしようと思いました。」
「僕は小学校で、コロナやハンセン病について学びました。コロナやハンセン病の差別はよく似ていて、隔離をしたり、あの家の親はハンセン病に罹ってるからその子と遊ばれんとか、そういう差別があるので、僕はダメだなと思いました。」
「小学校の時、コロナ差別やカカオ豆の児童労働、部落差別などを習って、とても心が締めつけられました。なぜ差別が起こるのか、それをどのようにして解決すればいいのか、僕はいつも人権の勉強が終わったときに考えます。」
「僕は小学校では部落差別や男女差別、原子爆弾、神風特攻隊についてのいろいろな授業がありました。特に僕は原爆は何万人、何十万人も亡くなっていて、決して忘れてはいけないと思いました。」
「小学校の授業では、差別、上下関係などのことを学んできました。でも小学校で習ったような内容ではまだまだ差別やいじめはなくならないと思いました。なぜなら真剣に考えている人もいれば全然考えない人もいるからです。それとまとめながらで書いた文章が自分一人では絶対にできない大きなことを書いている人がいるからです。なので小さいことでもいいので、自分自身ができること、身近なことを少しずつ実行していこうと思いました。」
「小学校5・6年で水俣病の差別や部落差別、男女差別などについて習ってきました。私は差別はいけないと知っているからできるだけ差別をしたくないですけど、差別をしたがわになってみると、差別をしてしまうかもしれないなと思います。例えば水俣病の患者の家族から手で釣り銭をもらわなかったり、バスの中で避けたりしたこと。これは近づいたら移るかもしれないと思い込み、知らなかったから行動したと思います。差別した人も、自分の家族は水俣病になりたくないと思って守るためにしたかもしれないから、差別や人権について正しい情報を知りたいなと思います。」
「私はこれまで部落差別やいじめ。コロナ差別などいろいろなことを学びました。そこから思ったことは、いろんな人がいて知っていくなかで、その人の短所が見えてくることもあるけど、それも受け入れて、長所をどんどん見つけていく方が、楽しいし友達も増えていって自分の考えも深めれるということです。」
「人権について学んだことは、人間とは互いに思いやって支え合うはずの生き物なのに、世の中には昔から今まで長く続く差別や人権があることを学びました。そしてその差別は人が人を苦しめる絶対にあってはならないものだと学びました。それをなくすためには差別と闘う行動をすることが一番大切です。家族やテレビから差別について聞き、身のまわりのすぐ近くに差別はあって、実際に町で差別と闘う横断幕を見たりして、差別はすぐ近くにあって、今も少しずつの小さいことが大事だと考えました。」
「私が小学校で学んだ差別とかは、女性や人種、病気の差別について学びました。私が学んで思ったことは、最初は自分には身近なことではなくあまり関係はないと思っていたけれど、ニュースを見たり、ネットや本とかで調べてみると意外と身近によくあることで、日本のとか世界でも差別をする人はたくさんいるんだなと思いました。」
水俣病の問題も含め、百人の被害者がいれば百人の現実があります。大切なのは、一人一人の思いをていねいにくみ取ること。学習を進めれば、分かったようなつもりになっていても、実は分かってなかったということに気づきます。ハンセン病回復者キムさんの、「正しく知って正しく行動すること」を実践に移せば、コロナ差別も起こらなかったのではと思います。
3.人権を考えるうえで大切なことは,身近な出来事です。勝手な「決めつけ」や「押しつけ」、「思い込み」で、人に嫌な思いをさせてきたり、させられてきたことはありませんか。人権侵害(差別やいじめ)を身近に感じたことはありませんか。
「4年の頃、牛乳が飲めず、給食を完食をしたら花丸が5個つくので飲め飲めと言われましたが、しかし飲めませんでした。だから鬼ごっこやドッヂボールで仲間はずれにされてとても悲しい思いをしました。」
「私は小学校のときに家の用事で学校を何日か休んでいたときがあって、そのときに学校で友達に私がコロナに罹ったんじゃないかって噂をされてとてもしんどい思いをしました。なのでこの思いを知っているからこそ、そういう決めつけはしない方がいいなってあらためて思いました。」
「私が身近に感じた人権侵害とかは、小学校低学年のときやけど、外に行ってドッヂボールとかをみんなでしよったら、お前が弱いから負けたとか、お前ざこやから他のチームに行ってってみたいな感じで他の人が言っていて、それって差別とかじゃないんかなと思いました。」
「私が小さいときに、少し嫌な気持ちを持ったことがあります。私が何か友達との大切な約束を破ってしまい、相手を怒らせてしまいました。何度か謝りましたが、その次の日から少しの間、相手の子が他の友達にコソコソと私のことが嫌いといったようなことを言っていました。そのときの経験があるからこそ私は人権問題に真剣に向き合っていこうと思いました。」
相手の立場に立って、というけれど、それができない一面が人間にはあります。しかし、本当に相手の立場に立って考え、人をのけ者にしない素晴らしい一面も人間にはあります。自分がどう考え、何を選ぶかです。人は間違いに陥ってしまう弱さを持っています。だからこそ、もっと学んでいかなければならないのではないでしょうか。
4.目前に中間テストや体育祭を控えていますが、あなたはこの学年をどんな学年にしていきたいですか。この1年、あなたはどんな人間をめざしますか。
「私はこの1年間や中学校3年間を通して、何か絡まれることがあったりしても、仕返しをしたり、裏で暴言を吐かない人間を目指したいです。そしてどんな学年にしていきたいかというと、みんながみんなのために優しいことで笑っていける学年、クラスにしていきたいです。体育祭などもみんなで仲良く協力してやっていきたいし、勉強などで分からないことがあったら、分かる人と協力して効率よく勉強して、みんなと仲良くしていきたいです。」
「私はこの学年を、誰も悪口を言わない学年にしたいです。悪口を言わないってことは誰でもできると思うので、まずその悪口を言わないっていうところから始めたいと思います。そしてこの1年間人から尊敬される人間になりたいです。尊敬されるっていうのはすごいことをやるっていうことじゃなくて、いつも当たり前にできていることを毎日当たり前にやるっていうことだと思うので、毎日そういうことを続けていきたいと思います。」
「私はテストや体育祭を機に、みんなで協力していじめや差別のないようにしていきたいです。○○さんは勉強ができないから一緒に勉強をしたくないや、○○さんは運動ができないから負けたなどの悪口を絶対言わないようにしていけるような学年にしていきたいです。また私は人権の問題についてもっと知っていって、みんなに優しくできるような、そして仲良くできるような人間になりたいと思いました。」
「この金曜日に体育祭の練習が始まっていくと思います。その中で運動が苦手な子、得意な子がいると思います。しかしその苦手な子、得意な子を分けて差別するのではなく、今日こうやって人権について考えて話し合った仲間なので、みんなで協力し笑い合っていける学年で、体育祭を楽しんでいきたいと思います。」
「僕はこの学年を助け合い、協力し合う学年にしていきたいです。この目標は初めは身近な人から、そして最終的に学年全体に広げていきたいです。そして僕はこの目標を果たすために、自分自身が助け合い協力し合えるような人間になれるようにしていきたいです。」
最後に私から、昔体育祭の全員リレーで起こったハプニングについて話をさせてもらいました。真剣に聴き入る1年生のまなざしは、真剣そのものでした。
今回、たくさんの1年生が自ら手を挙げ、緊張のなかマイクを握りしめ、自分の言葉で自分の思いを語ってくれました。なかには、もうすでに原稿なしで思いを述べ始めた子もいました。手を挙げられずに悔しい思いをした人もいたでしょう。この続きは、また次の機会として、この学習を積み重ねていこうと思います。
こうやって自分を表現することを積み重ねていった中学生が、3年後にどのような成長を果たすのか、あらためて見てみたいと強く思いました。教育のめざす道しるべをどう描くか。それによって、育つ子どもの姿は、まったく違ったものになるのだと思います。 みなさん、大変よくがんばりました。
T-over人権教育研究所として取り組んだ八万中学校での企画が、地元徳島新聞で掲載されました。
身近に感じられなくなったとされる部落差別。でも感じる人には、確実に感じてしまう。そのことを中学生に伝えたくて企画しましたが、それは記者さんのアンテナにもしっかり届きました。
今も、伝えたい思いを抱えている、どこかにいる仲間に、この記事が伝わればと思います。
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