ふらり/ひとり/旅 1日目

人生最後のリフレッシュ休暇を使い、新型コロナも相まって行けていなかった場所へ、ようやく行くことにしました。

22日を0日として、1日目の23日、8時には横浜を、9時には上野を出発し、群馬県草津へ。徳島感覚で侮っていました。草津は遠い。。。

特急なのに、到着時刻は11:24。徳島から3時間半もかければ、いったいどこまで行けてしまうのか。京都よりも先か。

あいにくこの日は、前日までの好天とは打って変わって、冷たい雨。空の小さい都会地を抜け出し、次第に広々とした関東平野に。雲は低く垂れ込め薄暗く、寒さがいっそう体の芯に落ち込んでくるようでした。

低く暗い雲に確認できなかったのですが、気がつけば突然目の前に山の峰峰が。山を見て気持ちが落ち着くのは、島国四国の人間だからでしょうか。

長野原草津口駅に着くと、小さな駅の割に多くの人。草津温泉の賑わいをほんの少し感じました。

改札を出たところに、よく見知った、重監房資料館黒尾氏の顔を見つけ、自然にほころびます。迎えの車に乗せていただき、草津温泉「湯畑」をぐるり一周案内していただき、栗生楽泉園へ。社会交流会館で紹介用の映像を見てのち、学芸員の方に館内を紹介していただきました。

観光地で有名な、あの「湯畑」周辺にかつてハンセン病者が居住していたこと。そしてその地を無理矢理奪われたこと。代わりに湯川の最下流部「湯之澤」に住まわせられたこと。そこはかつて死人が投げ捨てられていた「骨が原」と呼ばれたところだということ。

しかしそんな冷遇下においてもハンセン病者は、その地を自由療養村として、飲食店、小売業、呉服屋、鍛冶屋などをつくり、自由の天地として発展させたこと。

しかしその後、昭和6年のらい予防法により、湯畑からさらに離れた、新設の楽泉園へと再度移住させられたこと。そんな歴史を見知りました。多磨全生園とも、大島青松園とも、長島愛生園とも違う歴史を感じました。

社会交流会館から重監房資料館に向かう途中、重監房跡地に魂を預け、資料館に向かいました。

まず、胸を打たれたのは、納骨碑。そこに刻まれた、「いつの日かその名を刻めることを願って」。言葉の重さが、胸底に深く落ち込みました。

紹介用の映像を観たあと、重監房を再現したレプリカに立ち入っていきます。入り口には、名ばかりの「特別病室」と書かれた表示。1日2回の食事のレプリカ。使われた形跡がほとんどない診察室。脱走できない厳重な作り。冬にはマイナス20度にもなるこの地。しかし、何の暖房設備もあるわけもなく、せんべい布団で凍死していった収容者。私には、戦後シベリアで抑留され、飢えと寒さで亡くなっていった人々と重なりました。

何の記録も残ってないなかで残された、食事を運び、遺体や収容者の世話をした方々のいくつもの証言に、罪なく逝った人々にとっての「生きる」意味とは何だったのかと、思わせられました。

閉館時刻を大幅に過ぎての退館に深くお辞儀をし、資料館をあとにしました。予約していた旅館に入り、大雨のなか湯畑を散策し、夕食をとり、ゆったりと内湯の源泉掛け流しを独り占め!

あとは、強く打ちつける雨音を聞きながら、W杯ドイツ戦に、ひとり叫び声をあげる夜となりました。チャンチャン。

2022年11月23日