2025年1月24日午後から26日午前にかけて、第74次教育研究全国集会が京浜地区で開催され、「人権教育」分科会に参加しました。
1日目午後 新潟、鳥取、熊本、鹿児島、大分、大阪
2日目午前 京都、千葉、静岡、兵庫、徳島、三重
2日目午後 熊本、鹿児島、川崎、山梨、長崎、福岡、沖縄
それぞれのレポート報告がされ、3日目午前には全体会・総括討論が行われ閉会となりました。
参加する中で、私が心に残った文脈についてふれてみたいと思います。
衝撃の事実! まずは兵庫県宝塚市の取り組み。
親が部落差別について言う、「いつかなくなる」。「それ、いつなん?今しんどい思いしてる子にそれはよう言えんわ」との共感的な思い。
現状としてある市民の意識調査(2017年実施)…
「同和問題があることを知っている」で「はい」と答えた人の割合…「50~59歳」96.5%、「20~29歳」57.6%、「16~19歳」41.8%
「学校で教わった差別や人権に関する教育の内容」で「同和問題」と答えた人の割合…「50~59歳」93.6%、「20~29歳」45.9%、「16~19歳」38.3%
この世代間差異のなかで、人権教育が消える学校と残る学校の違いを埋めるために考え出してきた、是正のための簡単で定期的な数値化による仕掛けづくり。
手法として試みることに意味はあるように思いましたが、「思い」が置き去りにされているようで、+アルファの必要性を感じました。にしても、この調査結果は衝撃的で、徳島でも市町村別に実施すべきと感じます。(個人的にはずっと思い、主張してきてる)
徳島からは「チーム担任制が拓く語り合いの人権学習」として森口共同代表が報告しました。
板野中学校で実践されてきた全体学習には汎用性があり、「語り合う」という手法が子どもたちの可能性を大きく拡げるというものです。
これは部落差別について取り組んできた全体学習のみならず、阪神淡路大震災や東日本大震災での復興、また原爆被害者の証言などで、必ずのように出てくる言葉です。語れば、マイナスだと思ってきたことがプラスに転化する。対話することが当たり前になることの重要性です。
また、そんな当事者の言葉に直に接することです。そして、感じたままの思いを自分なりに素直に表現することです。子どもたちは表現したいと思ってるし、そう願っています。認められたいと願っています。それに蓋をしているのが、今の日本の学校教育の現状ではないでしょうか。
チーム担任制は今回、人権学習で報告しましたが、テーマは何であってもいいのかもしれません。学年・学校が荒れるという話をよく聞きますが、それは一貫した共通テーマとしての楔がないからではないかと思います。楔がないから荒れるのです。人権は、子どもたちみんなに共通した普遍的なテーマです。だから学校が荒れることなく落ち着き、みんなが同じ方向に向けて頑張れる集団となるのです。
共同研究者からの話にも心響くものがありました。
形だけの識字への取組は、思いもかけない負の結果を生み出してしまうという話。受付で「池田」を「イケダ」と読んでもらえず、「サワダ」と呼ばれたときに対応できなかったゆえに、閉店まで待ち続けざるを得なかった識字者の話。
また、いつかどこかで聞いたという、「人権について大事なことを学び合った関係があれば、いつか何かあったときに助け合える関係になるのではないか」という話。
どれも唸ってしまうような話で、かつ自分の立ち位置を確かめることのできる話でした。
また、新潟からの取組として、知ることの必要性と大切さ。識字は差別への抗いであり、単に知ることだけではない。感性を取り戻すということ。
福岡からの取り組みとして、「くつろぎスペース」の必要性は小学校のみならず、中学校や高校にも必要ではないか。
他の実践を聴いていて思ったことは、「全体主義」です。これもずっと感じてきたことです。「全体主義」を美化する風潮がどこかにあって、戦時下の名残と思えるような形で集会や体育祭が行われ、それを良しと尊ばれる空気です。そんな競技や非常時の行動を美徳のように報道する空気です。そして、そうすることが強要される空気に、異様な違和を感じます。その一方で、中国や北朝鮮の集団演技を非難しているにもかかわらずです。「全体主義」は気をつけておかないと、個人を抹殺します。個性の伸長とはならず、個性を埋没させます。
「全体主義」の反対は「個人主義」でしょうか。言い方を変えれば、「人権教育」であるようにも感じます。日本の教育は、大枠として決まった形はありますが、都道府県によって、市町村によって、地域によって、その具体は違っています。沖縄には沖縄の問題があり、広島には広島の問題があり、北海道には北海道の問題があるようなものです。川崎市の「子どもの権利条例」は、それを具現化したものと言えるかもしれません。徳島においても、各市町村独自の課題があり、その違った課題をもとに、少しずつ教育は変わっているものです。であるならば、教員個々に合った場所での勤務も考えられなければならないのではないかと思えます。個人的に言えば、人権教育を尊重する私とすれば、人権教育に重きを置いた場所で仕事をしてみたい。そうでない場所では難しい、ということです。
あと話を4つ。
①子ども人権連のメンバーとして、「人権を語り合う中学生交流集会」について毎年助成審査をしていただいている平野裕二さんが来賓として来られていて、あいさつをすることができました。
②(共同研究者から)人権とは全く関係のないところで「近代音楽の特徴」について語られていて、それが、「雑音が取り除かれていること」だと。それまで許容されていた雑音や雑草といった概念が取り除かれ、その論理は子どもにも及び、「雑子ども」として取り除かれてはいないか、ということです。これには大変共感し、腑に落ちるとともに、大きな危機感をも感じました。
③(共同研究者から)「道徳を人権に変えられないか」との主張を30年来続けてきたと。同じようなことをずっと思い続けてきた私には青天の霹靂でした。道徳と人権は似ているように思えて、「似て非なるもの」、「真逆のもの」とすら思えるからです。これには私も賛同したいと思います。
④(共同研究者から)「研究は100年、教育は30年」研究はすぐには評価されないもの、ということは理解できる。「教育は30年」とはどういう意味か。結果が出るには30年かかるということか。子どもが社会の中心に坐するまでには30年かかり、そのときの社会の在り様が、30年前の教育に由来するということでしょうか。であるならば、これも私が思い描いてきたことと一致します。この国の、この町の30年後の姿をどう描くのか、それをもとに「今」どんな教育をしているのか、ということではないでしょうか。
土曜の夜はこちらにいる教え子たちや、旧知の方々と再会し、楽しいひとときを送ることができました。この教え子たちが、「教育は30年」の成果であるならば、私たちは自信と誇りをもって、今の取り組みを継続していけます。
今の教育が、30年後の未来をつくる。そこに夢と希望を語り合いましょう。
ちなみに前列左は、レスリング元日本代表オリンピアン、パリオリンピック代表レスリング監督です。